そしてゼロになる


 生まれてくるんじゃなかった。本当に。
 生まれてくるんじゃなかった。私の存在する理由など、一体どこにあるのだろう。
 生きているすべての人は、一体何のために生きているのか。
 私は、生まれてしまったから仕方なく生きている。
 生きていればいいことあるなんて安っぽい台詞で騙されたりはしない。明るい未来なんてどこにもない。信じるほうが馬鹿だ。
 こんな身体、いつ滅びてもいい。
 こんな存在、必要ない。
 ……だけど、死ぬ勇気もない。
 自分の存在そのものを呪い呪い呪い続けて、栗田ひかりは自分が女であることを捨てた。
 生きているだけで絶望に溢れているのに、女であるこの身体はそこにさらに輪をかける。
 人間は女の不幸が大好きだ。男の不幸はリアルだし、子供の不幸はかわいそう。女の不幸はファンタジーとして面白おかしく馬鹿にされる。
 それだけじゃない。男は女を罵り蔑み卑下し、女は女を攻撃する。
 二十三年生きてきて、それだけが身に染みた。現実世界も作り話も、女の不幸が光ってる。同じ女の不幸を見ては『この人よりまし』と、自分の境遇に納得する女たちに何度も吐き気を覚えた。
 ひかりは一度決心すると立ち止まらずに行動した。髪をばっさりベリーショートまで切り、スカートは捨て、女の子らしい小物には目を向けず、羽虫のように沸いて出るたくさんの感情を押し殺した。運よく身長が百七十もあるから、ダークカラーの細身のジャケットなんかを身にまとえば完全に男として見られるようになった。ただし、あまり声を出してはならない。ひかりの声は高めなので、声の高さで女だとすぐに知られてしまう。
 性同一性障害というわけではない。自分が男だと信じているわけじゃない。男になりたいわけじゃない。男なんて最低の存在だと思っている。自分の存在そのもの、そして女であることを疎んでいるだけだ。
 二十歳の頃に生まれ変わった。そんな生き方をしながら三年が経つ。
 自分の気持ちは変わらない。生きるのは、辛いだけだ。





*****





 夜空に輝くのは星なのかネオンなのか高層ビルの明かりなのか地上の光の反射なのか。上に吐き出した息は白く、視界がぼやけてどんな光も一瞬消えた。
 駅前は普段よりも浮き足立つ人々が行き交い、ロータリーに出入りする車もいつもより多い。イルミネーションは綺麗だけど赤だの青だの緑だのやりすぎなくらいの色使いで目が痛い。存在を主張し溢れる人波で酔いそうだった。
 ――全てがうざい。
 この時間も、この空間も、歩いている人間も、目に映る光も、ここにこうしている自分さえも。全てなくなってしまえばいいのに。
 壁際のできるだけ目立たない場所を選び、ひかりはじっと感覚を研ぎ澄ましていた。
 ――景色に溶け込むんだ。
 両目を閉じ、誰からも気付かれぬよう、影のように身を潜める。これはもう、癖だ。こうすれば景色に溶け込み自分の存在が消せるなんて、本心では思っていない。だけど、癖で存在を消すことの挑戦をやめられない。
 そうでなくてもひかりは闇色のロングコートをまとい、両手を大きなポケットに入れて立っていた。顔以外、見えている色はない。全て黒。彼女の存在に気づく人はほとんどいない。
 もう二十三歳だ。それでも、自分の行き着く先の見通しがない。自分の存在と明るい未来を夢見ていたのはもう遠い昔のことだ。
 雪の降らないクリスマス。理想も幻想も、それを信じている人の心の中にだけあればいい。
「ごめんね、待った?」
 ふわりと、蝶が舞うように自分に掛けられた柔らかな優しい高い声。ひかりは心を目の前の現実に戻した。そして小さく笑う。そうすれば、相手はそれ以上の笑顔を返してくれた。
「大丈夫。今来たところだから」
「本当に?」
 上目遣いで問いかけられ、ひかりは苦笑した。本当だよ、と小さく返す。
 自分がどんなに存在を消そうとしても、見つける人物は現れる。それは奇跡なのか絶望なのか。こういう存在がいるかぎり、自分はそれでも生きていくんだろうと、悲しく笑う。
 ひかりは相手の荷物に気付き持とうとして手を差し出したが、やんわりと押し返された。
「ひかりって男の子以上に男の子だよね」
「どういう意味?」
「女心が分かってるってこと」
「ま、女ですから」
 並んで歩き出すと、背格好の違いからまるでカップルのように見える。隣の女の子は、巻き髪にも気合が入っていて、ラメを混ぜ込んでいるのかとてもキラキラしていた。片手に白くて小さなエナメルのバックと黒くておしゃれな紙袋を持っていた。多分、その中にプレゼントが入っているのだろう。ホワイトカラーのコートは見慣れたものだが、裾からふりふりのスカートかワンピースかが見えていた。首元には肌触りのよさそうなマフラー、靴は膝下まである茶色のブーツだ。化粧はひかり好みの薄いもので、目元も口元も常に笑みを絶やさない。全てが黒でコーディネートされているひかりに対して、彼女はパステルイエローを中心とした、パステルカラーでまとめていた。
 ふたりを見比べたらそれはまるで光と闇。
 自分の持つ名前の意味を思い、ひかりは失笑した。
「何笑ってるの?」
「いや、せっかくクリスマスなのに、沙弥は本当にラーメンでいいのかなって。せっかく可愛い格好してるし」
「ふたりともフリーターでお金ないししょうがないよ。一緒にいられるだけでいい」
「ならいいけど」
 沙弥。水野沙弥とは、レズビアン専用の出会い系サイトで知り合った。まだ三ヶ月の付き合いだ。プロフィールに『レズ友募集中。二十三歳。タチだよ。メールのみもOKだけど出来たら会いたいな』絵文字も顔文字も可愛げもないそっけない書き込みをしたら数人からコンタクトがあった。あからさまなネカマは無視。何人かとメールを続けていくとひとり、またひとりと疎遠になり、最後まで残った沙弥と実際に会うことになった。
 待ち合わせ場所には先に着き、それっぽい女の子を探しながらいると、遠くから歩いてくる彼女に気づいた。そして一瞬、世界に音がなくなった。次に絶対にこの人じゃないと思った。二十八歳にはとても見えないメルヘンチックな少女らしさと、幸せそうなオーラ。外見はレズビアンにどうしても見えなかった。男と歩いているほうがお似合いだ。だけど、気になって目が離せなかった。経験上の直感というのだろうか、彼女はもしかしたら……。そしてやっぱりそうだった。レズビアンは直感でお互いが結構分かるのだ。「すぐに分かったよ」沙弥の第一声はこれだった。ひかりは苦笑し、「会いたかった」、そう言った。愛しい手を沙弥に差し出す。
 それから、時々会うようになった。お互いの家を行き来するようになり、お互いのバイト先も知っている。今一番連絡を取り合っているのは間違いなく沙弥だった。だけど、ひかりは自分たちの関係性がいまいち掴めなかった。出会い系サイトで実際に会うことになったレズビアンとは、たいてい小難しいやりとりはすっとばしてすぐに肉体関係に陥った。だけど沙弥は違う。何だか妙に沙弥には手が出しにくい。沙弥がそういうことを望んでいるのかもわからない。だから一緒にいて笑いあうだけだ。この子とはそれだけで十分なようにも思えた。沙弥は綺麗過ぎて、ひかりには眩しすぎる。友達でも恋人でもない微妙な状態で一緒にいるのは正直精神的に辛い。近いうちに終わりになるかもしれない。
 死を意識している自分は、常に何かの終わりを感じている。
「ひかり」
「何?」
 星でも入っているんじゃないかと思うくらいキラキラとした大きな瞳で見上げられると、ひかりは熟考から抜け出した。
「ぼんやりしてどうしたの」
「ラーメン屋が混んでないか考えてた」
「クリスマスにラーメン食べようなんて考えるのはわたしたちくらいだよ。大丈夫。空いてるよ」
「あのラーメン屋は普段だったら行列が出来るんだよ。クリスマスだからこそ狙っている輩もいるかもしれない」
「輩って」
 沙弥は笑った。彼女はひかりの言葉遣いに時々笑う。
「考えすぎだよ。並ぶなら並ぶでもいいし」
 信号が青から赤へ変わる。横断歩道の前で足を止めると、ひかりは無意識に気配を消し、景色に溶け込もうとした。
 立ち止まると考えてしまう。思い出してしまう。自分が生きていることを。
 ――誰も私を見ないで。存在していることにしないで。
 このまま黙って風のように消えていけたら、どんなに楽だろう。
「ひかりってさ、時々真っ黒になるよね」
 自分の意識を現実に戻すやさしい声。しかしひかりは沙弥の言っている意味が分からなかった。
「真っ黒?」
「なんかこう、オーラが黒くなるって言うのかな。黒くなってから、透明になる感じ。わたしもうまく説明できないんだけど、なんかね、死んでいるみたいに感じることがあるの」
 ひかりは無表情で沙弥を見つめた。沙弥は笑顔を作った。
「だからね、わたしが照らしてあげようと思って。わたしはひかりが好きだから」
 屈託のない沙弥の笑顔。
 赤から青へ、信号が変わる。背の高いひかりの腕を取り歩き出す沙弥。
 ひかりはなぜか泣きたいような気持ちになり、助けを求めるように沙弥を見ると、視線に気付いた彼女はニッと笑った。
 自分の心はまるで空のようだ。ころころころころ心変わりする。誰かの言葉や笑顔で気持ちが揺らぐほど、自分は弱かっただろうか。
 自分の気持ちの動きと、沙弥の笑顔に、自分たちは本物の恋人になれるかもしれないと、思い直した。





 店の裏口からはいつも変なにおいがする。このにおいは毎日違っていて、一体何がどうなっているのかと首をかしげることもしばしばある。特に今日なんかは異様に甘いにおいがして、多分昨日のクリスマスの影響か何かだろうが、ひかりは鉄の扉のドアノブに手をかけるのを躊躇った。甘いものは苦手なのだ。だけど入り時間は迫っている。ここで立ち止まっているわけにもいかず思い切って開けると、小さな厨房の奥で店長の牧村しんやが小さなイスに座り頭をシンクにだらんと置いていた。生気の抜けた背中。思わずため息が出る。
「店長、どしたんすか? 汚いっすよ」
「ひかりちゃぁん」
 小さな喫茶店とはいえ、経営者がこんなんでいいのか。頬が引きつるのを押えながら声をかけると、店長は顔を上げ、ひかりより十歳も年上だとは思えないほど情けない声を出した。
「聞いてよぉ」
 黙って聞いていたら話が長くなりそうだ。ひかりは先回りして話し出した。
「昨日のクリスマスに付き合っている彼女に嫌われた」
「ひどいなぁ。嫌われちゃないよ。ちょっとケンカしただけで」
「謝ったほうがいいですよ。その歳じゃその子逃がしたらもう結婚とか出来ないでしょ」
「何も言っていないのに俺が悪いの決定?」
「男女のケンカの九割は男が悪いって言う相場があるんです」
「何よその情報」
「私の独断と偏見」
 ひかりはブラウンのエプロンを付けると、すぐに開店準備に取り掛かった。この喫茶店は、店長とバイトのひかりと、もう一人のバイトと三人で回している。完全に人手が足りてない。しかし人があまり通らない奥まった道にひっそりと存在しているせいか、ランチ時以外はそれほど忙しくもないから、店長はこれ以上人を増やすつもりはないようだ。
「ひかりちゃんは? 可愛い彼女とうまく言っているの?」
「何ですか、その質問は」
 厨房からカウンターを抜けて客席へ移動する。テーブルを拭き、床を簡単に掃きながら店長の会話に付き合う。小さい店だからか、少し大きな声を出せばどこにいても会話はできた。
「だって、昨日会ってたんでしょ? 可愛い彼女。いいなぁ」
「何ですか、その決め付けは」
「だって、そうなんでしょ? 俺も可愛い彼女ほしいなぁ」
「いるじゃないですか、可愛い彼女」
「可愛くないよ。昨日もさ、俺の作ったケーキ食べてくれなかったんだよ。彼女もケーキ作りが趣味なんだけど、俺の方が絶対上手いから食べさせてあげるって言ってるのにさ」
「それ、本気で思っているなら嫌われて当然ですよ」
「え、何で?」
「何でって……」
 キョトンとして本気で分かっていない三十三歳に、説明をするのも面倒くさく、ひかりはため息をついた。この人、あと十年経っても結婚は無理だ。
「ほら、もうすぐ開店時間ですよ。ボーっとしていていいんですか? 今日の仕込みは? 本日のスープは何にするんですか?」
「しっかりしてるなぁ、ひかりちゃんは。俺の仕事は昨日のうちにやったから心配いらないよ」
「昨日のうち? デートだったんじゃ……」
「ケンカして帰っちゃったから、やることなくて、料理してた」
 変わった人だな。
 ひかりは入り口を開け、風を入れた。今日も寒い。外に出て、店長が植えている名前の知らない花に水をやる。朝のこの作業は辛いときもあるが、育っていく花を見るのは楽しい。急に風が吹いて、寒さに弱いひかりはすぐに中に入った。
「店長、なんか甘ったるいにおいがするんですけど、これなんですか」
 一息つくと、ひかりは大きな鍋をかき混ぜ出ていた店長に聞いた。店長は少し考えた後、あぁと頷いた。
「ケーキ作ったんだよ。とっても甘いの」
「ケンカの原因の?」
「そうそう。彼女甘党だから、できるだけ甘くしてみたんだよ。そうしたらチョコレートのにおいがこびり付いちゃったみたいだね。あまっているけど、ひかりちゃん食べてみる?」
「遠慮します。私は甘いの苦手なので」
「そういえばいつだか言ってたね。ひかりちゃんの彼女は?」
「あの子は甘党だけど、今日は会わないからもらっても無駄になるだけなんでいいです」
「冷たいなぁ。おいしいのに」
 今日は先着何人かにサービスしちゃおうかな。店長は呟きながら楽しそうだった。
 このバイトは始めてからもう四年になる。これほど長く続いているのは、この店長といるのが居心地いいからだと、最近感じ始めた。
 だけど今までの彼女とは長く続いたためしはない。沙弥とは、長く続くだろうか。
 ――家族になりたい。
 沙弥はそう言った。昨日、ラーメンを食べた後ひかりの部屋で。
 ひかりは家族というものを知らない。十四年前、自分が九歳の時に、家ごと全部失った。家族も、思い出も、全て焼き払われた。かろうじて生き残ったひかりは、状況を理解出来ぬまま親戚の家に引き取られ、高校卒業と同時にフリーターになった。反対する親戚を説得して二十歳になると同時に一人暮らしを始めた。
 ――だけど、わたしとひかりじゃ子供が作れないの。
 服を全て脱いだ沙弥の身体には、無数の痣があった。元彼に殴られていたというのだ。ひかりは、そんなことが現実にあるという事実に驚愕すると同時に、沙弥にこんな痣をつけた男を心底憎く思った。だけど、沙弥はひかりに笑顔を見せた。女同士は子供が作れない。そう、泣きながら笑顔を作った。すると、憎しみは男から自分に移った。女を殴る男よりも、精子を持たない自分の身体が憎かった。
 ――同性愛に未来はない。
 絶対的な絶望。沙弥が笑顔で口にすることでより深くなる絶望。
「ひかりちゃんは手術しないの?」
「は?」
 店長からの突然の質問。意味が分からなくて、聞き返してしまう。
「男になる手術」
 さらりと問いかけてくる店長に、ひかりは苦笑し頭を振った。
「またそれですか。何度も言ってますけど、私は性同一障害者じゃないですよ。女である自分を受け入れています。同性愛者なだけ。男になりたいとは思いません」
「ひかりちゃん背も大きいし、男になったらかっこいいと思うんだけどなぁ」
「そうですか」
 まともに相手をするのは時間の無駄だ。真面目に話すにしては内容が繊細すぎる。こんなところで世間話のように話したくない。店長のような理解者はありがたいが、必要以上踏み込まないでほしい。
 時刻は店の開店時間を回った。だけどランチタイムに突入するまで、多分お客さんはやってこないだろう。そういう店だ。だから、会話が続く。
「店長。その手の話、お客さんのいる前ではしないでくださいよ」
「え、何で?」
「店長はいいかもしれないですけど、普通に考えたら私はかなりおかしいんです」
 目を見て強く言うが、店長は不満そうに口を尖らせた。
「おかしくないじゃん。ひかりちゃんはひかりちゃんでしょ」
 言い返されてたじろいでしまった。店長の言っていることは正しい。ひかりだってそう思っているし、信じている。自分は自分だ。
「……それは間違ってないですけど」
「じゃあいいじゃん」
 この人は世間知らずなのだろうか。いくらごく少数とはいえ受け入れてくれる存在はあっても、それでも、世間体や摂理、常識というものがこの世には蔓延して、ひかりのような同性愛者という存在はそれから弾かれる。隠れるようにして生きているのに、大っぴらにされたら何かがものすごい勢いで崩れ落ちていくような気がして、そうなったら自分がどのようになるのか、立てなくなるのか、涙を流すのか、笑うのか、壊れるのか、どうなるのか全く想像が付かなくて、ただ怖い。
「私だけじゃなくて、店長も白い目で見られますよ」
 重くならないように、出来るだけおどけてみせた。
「人の目が気になるなら、いっそ男装して生活すればいいのに」
「男になりたいわけじゃないんですって」
 店長の発想は一体どこから来るのか。面白いが時々笑えないときもある。
 彼女も大変だな。無責任に思った。





*****





 十四年前、身も心も腐れ穢れきってから、沙弥はどこにいても何をしていても心の中で自分を貶していた。笑顔でいても誰といても、いつも泣きたかった。二十八歳になっても、何一つ変わることが出来なかった。どこへ行けばいいのか、何をしていればいいのか、どんな表情でいればいいのか、どうしていたらいいのか、全くわからなかった。一人ぼっちで出口のない迷路に迷い込んでいる気分だった。目の前は真っ黒だが、見上げれば青い空がある。それだけを信じていた。
 途方もない寂しさのあまり出会い系にはまり、男女問わず何人もの人たちと会ってきた。もう数え切れないほどたくさんの人と。一つの街で顔が知られすぎて、自意識過剰だと自覚していたが、誰かにばったり出くわすのが怖くなり、今の街へ引越し、そしてこの街で初めて出会ったのがひかりだった。すぐにレズビアンだと分かった。その種族特有の、何とも言いがたい空気感。
 タチだと自負するレズビアンは大抵男っぽい。ひかりも例に漏れずそうだった。ひかりの場合、背格好や立ち振る舞いもその辺の男よりも紳士的で、沙弥の目にはとても格好よく見えた。ひかりの腕を取って歩いていると、どこからか自信が漲ってくる。ひかりはカッコいい。本人に直接そう言ったことはないが、自慢の恋人だ。実際誰にも自慢できないことを残念に思う。
 男を知らない身体。それを見たときは心の奥底で優越感に満たされた。
 沙弥は自分が生きていることに幻滅している。男を嫌悪しながらも男を受け入れたがる身体。それでも男を汚らわしい対象としか見ることができず、なぜならそれは男が女をあらゆる欲求のはけ口としか見ていないからだ。少なくとも、沙弥の周りには女を軽んじる男が多い。
 十四年前の、あの事件の直後くらいだったろうか。
 世界に怯え震える沙弥に、ひとつの噂が同級生の間に広まった。『あの子、ヤリマンらしいぜ』
 ある日沙弥は、「こっちで先生が呼んでる」と知らない男子に呼び出された。今にして思えば、どうしてそんな言葉を信じてのこのこついていったのだろう。連れて行かれた先はどこかの知らない部室で、ニヤニヤした男子が六人、腕組みをして待っていた。
 言いようのない違和感に包まれ、本能的に逃げようとしたが、一人が扉の前で立ちふさがり、別の男子に髪を引っ張られて冷たい床に倒された。声変わり前の痛々しいナイフみたいな声が降ってくる。『なぁ、お前、ヤリマンなんだって?』。意味が分からず、倒れた姿勢のまま顔だけ上げ『何それ』と尋ねると、『教えてやる』と嬉しそうに体を押さえつけられ、ハサミで制服を切られ、写メを何枚も撮られた。
 この時に感じた絶望は今でも覚えている。男の子たちは今になってはもう笑いながら思い出話にしているだろうが、沙弥は誰にも言えず心の中で今でも絶望に取り付かれている。
 それ以来学校では内気な生徒になってしまい、時々集団の男子たちに囲まれた。『なぁ、今日いいだろ?』。欲しか映さない男子たちの目。逃げれば、何よりも最悪な写真がインターネットに流れてしまう。頷くしかなかった。
 何度も泣いた。涙がかれても、ベッドに伏して声を押し殺して泣いた。食べても食べても全て吐いてしまい、一時期骨しかないくらいに痩せ細ってしまった。自分の心が壊れていくのを感じ、だけど止めることは出来なかった。
 沙弥は思う。女の子なんて、男の子にとって使い捨ての遊び道具でしかない。決して大切になんてされない。女の子を守ることを男の子は嫌う。男の子は自分の欲求の捌け口の為に女の子を使い、その女の子の個性や人権なんて考えず、好きなだけ殴り蹴り上げ痛めつけボロボロにし、立ち上がれなくなると喜んで馬乗りになり顔をボコボコ殴る。血を見ても当然手当てなんてしようとせず(そんな言葉すら頭の辞書にない)、瀕死状態になり呼吸を求めて喘げば鼻と口に砂を敷き詰める。男の子にとって、女の子なんてそんな存在なんだ。
 心の奥底ではお姫様に憧れていた。いつか素敵な王子様が迎えに来てくれると信じていた。だってまだ中学生だったんだ。夢は見たほうがいい。だけど悲惨な形で壊された。
 ――わたしが馬鹿だった。
 世界には夢も希望もない。
 何も誰も信じてはいけない。何も望んではいけない。
 沙弥は笑えなくなった。
 笑っている自分を誰かが見ている。男の子たちの行動はエスカレートしていった。『お前みたいなヤツが笑うなんて許さない』。そしてまた命の限界まで殴られる。
 殺されかけても、誰も助けてくれない。みんな見て見ぬ振り。
 ……だってそうでしょう。自分さえ無事ならそれでいい。他人がどうなったっていい。人間なんて、そんなもんでしょう。
 何も望んではいけない。誰かに助けを求めてはいけない。誰かが助けてくれるなんて甘い話、この世のどこにもありえない。期待するだけ無駄だ。
 ――幸せになりたい。
 それですら、望んではいけない。
 男の一瞬の快楽のために、女は時に一生を失う。沙弥は、身をもって知っていた。
 中学校を卒業してからは、仮面のような笑顔を覚えた。沙弥のようなやわらかな雰囲気をもつ女の子が笑っていれば大人は安心するし、男の子たちもなぜか手出しをしてこない。
 二十歳を過ぎ大人になって、やっと少しの自由を得た。男という人種が恐ろしくてたまらなかったが、ひとりだけ好きになった人がいて付き合った。しかし、理不尽な理由で暴力を振られて絶望を思い出してしまった。別れてはまた男と付き合うたびに、彼らはみんな暴力を振るい、男はみんなそうなんだと、大人になっても変わらないんだと、諦めのような乾いた笑いがでた。
 ためしに一度、女と付き合った。彼女らは沙弥の傷を理解し受け入れてくれた。女は陽だまりを持っている。ただ、女と身体を合わせると、惨めな気持ちにもなった。それでも女の繊細さが沙弥の心を癒した。何が正しいのか、沙弥には分からなかった。
 しかし沙弥は、子供がほしい。男を受け入れることでしか子供が出来ないことに激しい拒絶感を覚えることもあった。ジレンマのあまり夜眠れないこともしばしばあった。
 沙弥はバイセクシャルで、完全な同性愛者ではない。レズビアンはバイセクシャルを嫌う。だからいつもは自分の性質を黙っているが、ひかりにはうっかり元彼がいたことを話してしまった。だけど、ひかりは受け入れてくれた。
 ――ひかりみたいな人になりたかった。
 男に臆することなく堂々と立ち振る舞える女性。そんな人に、なりたかった。
 そういえば、ひかりと初めて会った日もこんな夜だった。星がはっきりと見える綺麗な空。月は建物の影に隠れて見えない。出ているのかどうかもわからない。こんなに星をはっきり見るのはどれくらいぶりだろう。
 駅の片隅で壁に寄りかかるひかりを初めて見たとき、暗い人だと思った。真っ黒なオーラを放出し、誰も寄せ付けない雰囲気を身にまとっていた。愚かしいほど何かに怯えているのは沙弥からしたら明白だった。
 この人なら利用できる。自分の心の安定に。
 マイナスの気持ちで、ひかりに近づいた。まさか三ヶ月も一緒にいるなんて予想はしていなかった。
 吐く息は白く、コートの隙間から風が入ってこないように身を縮めて歩く。物思いに更けながらいられる、何も警戒しなくていい、こんな日に辿り着けたことが少しだけ嬉しかった。
 年末に近づいた駅の構内は人の出入りが激しく早く、沙弥もその流れに乗るように足早だった。駅を出ようとしたところで思わず誰かにぶつかり、咄嗟に頭を下げた。
「すみませ――」
「……沙弥。探したよ」
 知っている声。一瞬、世界に色がなくなった。
 沙弥は顔を上げると青ざめた。沙弥よりひとつ年下の、元彼氏、向井竜也。明るい茶色に染めた髪はとても社会人には見えず、黒光りしたジャケットにジャラジャラつけたアクセサリーは相変わらずお金もないくせに遊んでいることを沙弥に教えるだけだった。成長しない男。小さな瞳の奥に黒い光を携えて、沙弥を強く睨みつけている。両手はポケットの中にしまいこみ、この手が外に出るのは自分に暴力を振るうとき以外他にない。どこまでも目の前の人物を威圧しようとする笑わない目元と薄すぎる唇。
「どうしてここに……」
 震えそうになるのを必死に抑えて、沙弥は口を開いた。まさかこんなところで会うなんて思わず、目が泳いでしまう。無言で威圧され、膝が笑う。
 今使っているこの駅は昔住んでいたところと大分離れているはずなのに、どうして会ってしまったのだろう。
 ……探してた? わたしを? 探していた?
 沙弥は身震いした。どんな表情を作っていいのか分からず、動くこともできず、ただ必死に立っていた。背中に冷たい汗をかく。
 ……怖い。
 この駅の人波が途絶えてしまわないように今はただ願った。夕方から夜にかかるこの時間ならばそんな心配ないだろうが、人の目がなくなれば、容赦なくポケットから手が出されるだろう。
「こっちの台詞だよ。俺の家から急に出て行ったかと思えば、こんな街にいたんだね」
「調べたの?」
「たまたま見つけただけだよ」
「どうして……」
「どうして? 何を聞くの? ってかどうしては俺の台詞だよ。俺たちは恋人だろう。どうして出て行ったんだ」
「あなたが……」
 暴力を振るうからだ。のど元まで出かかった言葉は、何かに引っかかって出てこなかった。上手く息が出来ない。
 竜也は真っ直ぐすぎるほど真っ直ぐ沙弥を見ている。しかし、沙弥の話を聞くつもりなど毛頭ないに違いない。沙弥はそれが分かっているから、言うだけ無駄だと分かっているから、言葉が通用しない人物もいると知っているから、目の前の男がそうであるから、何も言い出せない。
「あなたが、何? ちゃんと言ってよ。俺はいつもちゃんと聞いていただろう。お前はいつもそうやって何も言わないで、ひとりで行動してしまうんだ。そんなの悪いことだろ。注意してやってるんだから、直せよ。俺がいるんだから、何もかも相談してもらわないと、困るよ」
 沙弥を睨みつける瞳は真っ黒だった。沙弥は動けなくなる。もう一度掴まったら、たとえ沙弥が死んだとしても逃がしてくれそうにはない。この男が望んでいるのは、思い通りにならない世間からの自己の開放。ストレス解消に沙弥に暴力を振るう。だから逃げたのに。逃げ切ったと思っていたのに。
「帰ろう」
 向井竜也は沙弥を見据えて言うが、両手は相変わらずポケットの中だ。差し出すことはしない。口元は笑っているが、目元は決して笑わない。
 あぁ、そもそもどうしてこの男と出会ってしまったんだろう。どうして一瞬でもこの男を愛してしまったんだろう。この男は沙弥を自分より不幸な存在だとしてしか必要とせず、そうすることで優越感を得て、自我を保つんだ。愛なんて安っぽい言葉を使って、偽物の愛情で沙弥を支配する。決して大切にしてはくれない。多分、自分でなくてもよかった。たまたま沙弥とこの男が出会ってしまっただけだ。
「イヤだ」
 自分の両手で自分の両肩を抱いた。必死に搾り出した声はかすれて小さく、それでも男の耳には届いたようだ。
「どうして」
 問いかける男の目は笑っていない。
「もうイヤだ」
 ポロポロ流れ落ちてくる涙はひとつひとつが大粒だった。通りがかりの人たちは怪訝そうにチラリと沙弥たちを見ては足早に去っていく。
「何が?」
 沙弥は答えない。答えられない。
「何があったのか分からないけど、頑張ろうよ。俺がいるんだから、何も怖いことなんでないだろう」
 一番怖いのがあなただ。声にならない声。沙弥の震えは抑えられないほど大きくなっていく。
「ねぇ、話してよ。何があったの? 俺がいるだろ」
 やさしい声音で、口調で。だけど、目が完全に笑っていない。
 このまま逃げ去りたかった。だけどそんなことをしたら間違いなく追ってくるだろう。自分の運動神経で捲ける自信はない。出口を完全に見失った。ポロポロ流れ落ちてくる涙。
 どうして自分はこんなに、男から暴力ばかり受ける性質なのだろう。逃げられないんだろう。男は全て優しい振りした悪魔。思えば十四年前、見知らぬ男からレイプされて以来ずっとそうだった。そこが始まりだった。付き合う男は調子のいいことばかり言いながら、沙弥の身を案じず殴る蹴るの繰り返し。思い通りにならなければひたすら罵り、沙弥を支配することに全身全霊をかけていた。
 男は誰もがそうなのか。女は暴力を受けなければならないのか。一時期はそう思っていた。だから仕方のないことなのだと。だけど、聞けばそんな男ばかりではない。そうじゃない男に出会いたい。だけど、なぜか暴力的な男ばかりを引き寄せてしまう。
「とりあえず帰ろうよ」
 沙弥の涙には触れず、向井竜也は自分の都合ばかり考えていた。話せ、話せと口癖のようにいうけれど、聞くつもりなんか最初からない。そういう人なんだ。
 ――誰か助けて。
 祈る思いだった。
「沙弥?」
 一瞬、世界から音が消えた。
 神様はいた。
「こんなところでどうした。……泣いているのか」
 たまたま通りかかったひかりが心配そうに沙弥の顔を覗き込む。バイト帰りなのか、全身からコーヒーの匂いがした。
「大丈夫。なんでもない」
「誰? 男かと思ったら女か。沙弥とどんな関係?」
 向井竜也は一歩沙弥達に近づいた。あからさまに敵意のある目をひかりに向ける。
 ひかりは直感でこの男は危険だと判断した。女の直感は恐ろしいほどによく当たる。ひかりは沙弥を守るように半歩前へ出た。
「お前こそ誰なんだ」
「聞いているのはこっち。あなたは誰?」
「失礼なヤツだな」
 ひかりが向井竜也をにらみつける。
「沙弥の元彼か?」
「元、って」
 ひかりは沙弥に聞いたが、向井竜也の方が反応し嘲笑した。
「今も彼氏だよ、ねぇ」
 沙弥に求めた同意だが、沙弥は答えず身を震わせ、ひかりの腕をギュッと掴んだ。その過剰な反応に、ひかりは目の前の男を遠慮なく睨みつける。
「……沙弥はこれから私と用事があるんだよ。今日のところは帰ってくれないか」
「用事? 何の?」
「食事に行く」
「だったら俺も同席していいかな。それくらい構わない――」
「女同士で話したいことだってあるだろう」
「……ふーん」
 竜也は笑わない瞳で面白そうにひかりを見た。全身を舐めるように遠慮なく眺め回した後、射抜くような目力で、ひかりに半分隠れている沙弥を指す。
「どんな話をしたのか、後でたくさん教えてもらうからね。……今日は帰るけど、俺の沙弥をあまりいじめないでよ」
 ひかりが何か言い出しそうなのを沙弥が腕を強く掴むことで引き止めた。沙弥はもう言葉が出てこない。顔も上げられない。去っていく竜也の後姿を確認することも出来ない。ただ、あの男が怖かった。こんなところまで自分を追ってきた執念深い男。元彼氏の知らない街にやってきて、逃げ切ったと思っていたのに。
「もう大丈夫。アイツは行ったよ」
 出来るだけやさしい声音を意識して、ひかりは指で沙弥の涙を拭った。少しでも強く擦ればマスカラやらアイラインやらが取れるので、ハンカチを取り出してやさしく拭く。
 そんなひかりの小さなやさしさに涙が止まらなくなり、とめどなく流れ出した。
「ひかり、ひかり」
 化粧が崩れるのなんて構わない。ひかりの胸の中で泣きじゃくりたかった。人の目もどうでもいい。ひかりがここにいてくれればいい。





 気がつけば、ひかりの部屋にいた。昨日来たばかりだが、随分懐かしく感じた。慣れた動作で黒いカバーの掛けられているベッドの端に腰掛ける。「ちょっと待ってて」とひかりは飲み物を取りに行った。
 泣き疲れた後で、自分のあんな姿をひかりに見られたのは初めてだと気付き、妙に照れくさかった。恥ずかしい、穴があったら入りたい。
 硬くなっていた首をほぐそうと、ゆっくりと視線を動かす。
 ひかりのアパートは六畳の狭い部屋だが、モノクロで統一された部屋だからかあまり狭さを感じない。テレビに繋げて出しっぱなしになっているテレビゲームに気がついて片付けようとしたところで、ベッドの隣に見慣れないシルバーのサイドテーブルに気がついた。
「これどうしたの?」
「店長がくれた。いらないからって。カシスでいいんだよね」
 ちょうど戻ってきたひかりが説明した。沙弥のために買い置きしてある缶チューハイを当たり前のように持ってきてくれる。自分の分にはペットボトルの水を持ってきていた。
「今日どうしてたの? バイトは?」
 ひかりの口調はとても冷静で、何を考えているのか、何を思っているのか、今の沙弥には全く読めなかった。
 ――自分のことを悪く思っていなければいい。
 醜態を見せた後なのに、都合のいいことばかり思ってしまう。
「今日は店自体が休みだった。昨日は修羅場だったけどね」
 出来るだけ暗くならないように声を明るくして沙弥は答えた。
「あぁ、クリスマスだからか。ケーキ屋も大変だね」
「クリスマスシーズンはね。それ以外はそうでもないけど」
「今日は?」
「うん?」
「どうしてた?」
「あぁ」
 沙弥は何をどう言おうか逡巡する。ひかりに悪く思われないために言葉を選ばなければ。しかし気を緩めると涙が出そうになる。
 ひかりが聞きたいのは向井竜也のことに間違いない。この部屋で治りきらない体中の痣を見られたときに、元彼氏に暴力を振るわれたことは話した。だけど、それ以上のことは話していない。どこまで話していいのか分からなかった。
 自分の身の上すべてを話すのは、ひかりにとって重荷にならないだろうか。男より女の方がそういうものを耐える力はあるが、ひかりはレズビアンだ。男の話なんて、多分きっとイヤだろう。
「今日は暇で、ひかりはバイトだから、ウインドショッピングに行ってたの」
「ひとりで?」
「うん、そう。ひとりで」
 ひかりの向いに座り、缶チューハイを開けグラスに移すと、透明な赤い液体が流れてきた。
「何も買わなかったみたいだね」
 沙弥の荷物を見てひかりは言う。沙弥はパステルピンクのハンドバックひとつしか持っていない。
「ウインドショッピングだったから。お金もあまり持ってないし」
「駅で、何してたの?」
 ひかりはあくまで冷静に問いかけてくる。その冷静さがむしろ怖い。出来るだけ明るい話題に持って行きたかったが涙が出てくるのと同時に諦めた。ひかりは男の子みたいに必要な情報を真っ直ぐに求めようとする。
 もう少しアルコールの強いものを飲みたいと思った。
「……気分転換に電車乗ろうと思って」
「気分転換に電車?」
「うん。流れる景色とか見たかったの」
「そっか」
 受け入れるだけ受け入れてくれる。聞くだけ聞いてくれる。吐き出すだけ吐かせてくれる。聞いてはくれるけどあまり深くは追求しない。それはひかりのやさしさなのか何なのか。そこにひかりの感想がない。だからどう思ったのかを言ってくれない。ひかりが今何を考えているのか全く分からない。
 いろいろと聞きたいことは山々だろうが、はっきりとは問い出してこない。だけど言うのを待っている。沙弥が話し出すまで待つひかりの姿勢に、沙弥は泣き出したくなった。そういうことは、少し無理にでもいいから、はっきりと聞きだしてほしい。そのほうが楽なのに。
「竜也はね」
 沙弥が話し出すと、ひかりはどこか遠い目をした。聞いているのか分からなかった。今はひかりを失いたくない。話すだけ話してもいいのだろうか。自分の醜い部分を吐き出して、それでもひかりは受け入れてくれるだろうか。共有できない気持ちならそれはもう仕方ない。なんなら聞いてくれていなくてもいい。それでも話したかった。自分の心を軽くしたかった。身勝手な都合だ。だけどこのままいたら、向井竜也の影にいつも怯えることになりそうだった。
「今もまだわたしと付き合っているつもりでいるみたい。……黙って出てきたのがいけなかったかな。わたしはとにかく逃げ出したかったから。あの人は自分の思い通りにならないとすぐ暴力振るうし、何もかも自分が正しいと思い込んでいて、わたしにその価値観を強引にでも共有させる。わたしや、他の人の気持ちを全く考えてくれない。……もう耐えられなかった」
 膝を抱えてうつむいた。ひかりの顔を見れなかった。思い出すと、怒りと悲しみで身体が震えそうになる。
「一緒に住んでいたけど、行動の全てを監視されているみたいで、落ち着かなかった。わたしの一挙一動の全部を支配しようとしていた。『愛しているからいいだろう』が口癖で、いつ、どこで、何を、誰と、どんなことを、全部の行動を分単位で聞き出してくることもあった。……あの人おかしいんだよ。わたしがトマト好きだって言ったら、トマトに嫉妬して絶対に食べさせてくれなかった。それどころかスーパーで売っていたトマトを箱ごとひっくり返してた。……ありえないよ」
 転がったトマトを足で踏み潰しながら向井竜也は満足そうに笑っていた。沙弥はどうしていいのか分からず呆然とし、我に返ると頬が引きつってしまった。赤く染まった床と遠目で睨んでいたお客さんがなぜかやけに印象的だった。あれ以来そのスーパーには行けなかった。向井竜也と一緒に買い物に行くことも出来る限り避けた。
「好きだった人だったけど、いろいろあって……ほら、恋愛するとその人がすごくキラキラしているように見えるでしょ。今思えば何であんな人が好きだったんだろう、っていうような人でも、好きになればそれだけで自分に魔法がかかったみたいになる。その恋の魔法みたいなのから解けて冷静になると、バカバカしくなっちゃって。何でこんな人と一緒にいるんだろうって。そしてね、気付いたの。わたしはこの人がいなくても生きていけるって」
「……気付けてよかったよ。だけどどうしてそんな男を好きになったんだ?」
 ひかりがやっと興味を向けて聞いて来てくれた。少し嬉しくなって顔が笑ってしまう。だけどすぐにまた沙弥は膝を抱えたままうつむいた。
「やさしかったから」
 沙弥が人を好きになる絶対条件を、向井竜也は持ち合わせていた。
 自分だけに見せてくれる何気ないやさしさ。ほんの少しやさしくしてくれるだけで、少しの間抱きしめてくれるだけで十分だった。それだけで明日も生きていける気がした。……最初の頃は。
「やさしいだけで、人を好きになるもの?」
 ひかりの何気ない質問に、自分自身を侮辱されたような気になり、沙弥は思わずムッとした。少しだけどアルコールも入っているから、感情が高ぶると理性で抑えられない部分も出てきてしまう。
「好きになるんだよ。悪い? 好きだったんだよ。でも、あんな暴力振るう人人だなんて思いもしてなかった。今度こそ大丈夫って信じてた。わたしだって馬鹿なんだよ。好きだったんだよ、やさしかったんだよ。本当に、好きだった」
 耐え切れず涙がポロポロと零れ落ちる。嗚咽をこらえて手の甲で拭っていると、ひかりがピッタリと隣に座り、肩を抱いてくれた。ひかりの冷たい体温が、今はとても心地いい。
「好きだったの。それでもわたしは竜也が好きだった」
 間違いない気持ちだった。そして過去形に出来る感情だった。
 ひかりは優しく話しかけてくれる。
「暴力男なんてやめなよ」
「……逃げてきたよ」
「逃げ切れてないじゃん」
「……」
 これから、どうすればいいのか分からなくて、ただただ涙ばかり零れ落ちる。何がいけなかったのか分からない。どうすればよかったのか分からない。向井竜也と出会ったことが間違いだったのか。向井竜也とどうやって出会ったのか、細かいことを今はもう覚えていない。あの人を見ればもう、身体が無条件で震え出す。そういう人としか今はもう見ることができない。
「ひかりがいれば大丈夫」
 頭を撫でてくれる細い腕を信じることしか、今は何も出来なかった。





*****





 店に一歩足を踏み入れると下からふんわりとした暖かさに包まれた。この空気に包まれるとなぜか安心する自分がいる。ランチタイムを終えた店内はとてもゆったりとした空気が流れていて、最近の店長のマイブームだというどこかの国の音楽が流れていた。客は一人もいなかった。
 ひかりはエプロンをつけると店長の姿を探したが、見当たらなかった。買出しにでも行っているのだろうか。
「おい、田中」
 変わりに見つけたもう一人のバイト、テーブル席の端に座る田中の後ろ頭に声を掛けた。
「あ、ひかりさん、おはようございます」
「縮こまって何やってんだ?」
「この前ひかりさんに教えてもらったゲームです。携帯でできるっていう」
「あぁ、それか。今休憩中か」
「いや、お客さんいなくて店長もどこかへいってから帰ってこないし、もうやることなくて暇で暇で」
 田中は幼さの残る顔で心底困ったような表情を作った。店内は整然と片付いている。確かにやることはなさそうだ。
「今日は遅番っすか」
「お前が早番なら私は遅番だろう」
「ここもう一人くらい雇えないんすかね。バイトふたりじゃ正直きついっす」
「私は平気だけどな」
「流石ひかりさん」
「暇も多いし」
 ひかりはため息をつく。
 こんなことをしている間にも、沙弥のことが心配で心配で仕方がない。あの男に家やバイト先は知られていないようだが、偶然駅で見つかったように、どこでどんな偶然が起こるかわからない。一先ずはあの駅に近づかないように、どんな事情だろうと近づかないようにと念押ししておいたが、不安は消えない。本当はずっと一緒にいたいが、そんなことは出来ない。防犯ベルくらいはもっているようだが、そんなもの役に立つはずもない。
「なぁ、田中。お前、DVをどう思う?」
「はい? DVっすか。男が奥さんや恋人に暴力を振るうってあれ?」
「そう。それだ」
「悪いことだと思うっす」
「……お前に聞いた私が馬鹿だったよ」
 ひかりはカウンターのスツールに座り、足を組んだ。ずっと携帯の画面に目を落としていた田中が顔を上げその様子を見て、ひかりの隣にやってくる。
「ひかりさん、大分前に俺に聞いたっすよね」
「何を?」
「『何のために生きているんだ』って」
「そうだったかな」
 ひかりは初めて会う人間に対して、いつもその質問をしている。自分が常に悩んでいるその質問の答えを、他の人間は持っているのか。明確に答えてくれる人もいれば、急にひかりを憐れみだす人もいた。たいていの人の答えは「そんなの考えたことがない」だった。
「そうっすよ。店長も同じこと聞かれたって言ってました」
「ふたりとも答えはなかったよな、確か」
「覚えているじゃないっすか。そういうひかりさんも答えを持ってなかったっす」
「分からないから、聞いたんだ」
「奥が深いっす。流石ひかりさん」
「意味が分からないな」
 田中の会話はほとんど聞き流している。年下の男にはあまり興味がない。そうでなくとも、田中の話はおかしいところがある。
「だけどDVなんてどうしたんすか。誰か被害に合っているとか」
「まぁ、そんなところだ」
「あんまりひどいようだったら、専門的なところに相談したらどうっすか。何なら俺、その連絡先くらい調べますよ」
「そうじゃなくて、男として、女に暴力を振るう男をどう思うか聞きたかったんだ」
 男の気持ちは分からない。ここの田中や店長は多分暴力は振るわないと思えるから、聞いてみたかった。だけど、どんな人だってどんなスイッチでいきなり暴力的になるか分からない。
 ひかりは怖かった。平気で女に暴力を振り、それをあっけらかんと正当化している男を目の当たりにして、世界が怖くなった。それと同時に、より男が嫌いになった。そんなヤツがのうのうと一般人のように生活している。許せなかった。
「最低っす」
 田中が急に席を立ち、厨房に向かった。戻ってきたと思ったら手にカップをふたつ持っている。ひとつをひかりの前に置く。どうぞ、と言われ口をつけると、味が分からず思わず首をかしげた。
「女性や弱い人に暴力を振るうなんて、絶対にやっちゃいけないことっす。親父もお袋もばあちゃんもじいちゃんも友達も、みんな絶対そう言います。弱い人に手を上げるなんて、最低な男のやることっす」
 しばらくして薄すぎるコーヒーだと気づき、そっとカップを置く。田中が本気で怒っていることに気づき、ひかりは内心安堵した。
「……そうだよな。そういうヤツは殴っていいかな」
「女性が殴るのはいけないっす」
 田中はひょろい胸をピンと張った。そんな田中はなぜか自信に満ち輝いていた。
「そういう男は男が退治するっす。そのほうがカッコいいし絵になるんす」
 何を根拠に言っているのか全く分からない話だったが、何だか田中が羨ましかった。










 赤黒い色を覚えている。
 目の前に広がった、ねっとりとした液体。
 生臭い、生を感じるにおい。
 生暖かな感触。
 妙に安心するようで、だけど恐怖に満ちていた。
 ――目の前に倒れているのは、誰?
 それが自分の母親だと気づくのにそう時間はかからなかった。思わず後ずさる僅かな足音に気づき、自分の目の前に立ちふさがる化け物のような人物の光を映さないどす黒い瞳がギラリと輝き、立ち尽くすまだ幼いひかりを捉えた。反射的に逃げなければと思うが、身体が凍りついたように動かない。
 子供心に異常だと思った。これが夢であることを祈った。
 数分前、鈍い物音がして眠りから覚め、嫌な予感がしてリビングにやってきた。明かりのついていたそこは、ありえない色で染まっていた。
 化け物のようなその男は、赤黒い血がべっとりと付いた刃物を振り上げ、奇声と共に振り下ろした。思わず目をつぶる。肩から胸に、ざっくりとした重み。
 あぁ、自分は死んだんだと、大人になれずに死んだんだと、涙を流した。膝から崩れ落ちる。その後の記憶は、ない。
「人ってね、結構あっさり死ぬんだよ」
 誰だったか、そう言った。
「みんな自分が死ぬって事分かってない。いつか死ぬのに。どんな生き方をしたって、いい人だって悪い人だって、いつか必ず死ぬんだよ。それを分かってなさ過ぎる」
 その人は、何かに対して怒りをあらわにしていた。その怒りの対象が何なのか、ひかりには分からなかった。ただ話を聞いていただけだった。
「ひかりもね、いつか必ず死んじゃうの。だから、後悔したらだめだよ。明日があるなんて甘い考え持っちゃいけないからね。いつ死んでもいいように、常に準備してないと。死んでからあぁしておけばよかったとか、誰かが死んでからこうしておけばよかったとか、そんなふうに思うのはまっぴらごめんだから」
 その人は、気づいたらひかりの前からいなくなっていた。思い出の人。顔も名前も思い出せない。
 人はいつか死ぬ。分かっている。死ぬべきときに死ねず、生き延びてしまう人もいる。それが自分だと、ひかりは自分自身を呪う。





「いらっしゃいま――ひかり」
 ひかりは自分のバイトが終わると、そのまま沙弥のバイト先まで迎えに行った。ひかりの姿を見ると、沙弥は少し驚いた後やさしい笑顔で迎えてくれる。だから、ひかりも笑顔を見せた。
「迎えに来てくれたの? もう少しだから待ってて」
「いいよ。待ってるつもりだった」
 ひかりは慣れた様子で入り口にあるおしゃれなベンチに腰を下ろした。ふんわりとした生地にやさしい色合いのクッションがいくつか置いてあり、洋風のシェルフには可愛らしい小物が置かれていた。自分には少し場違いな、女の子の店だった。
 ここ、沙弥のバイト先は口コミで評判になったケーキ屋さんで、オレンジ色のチェックがベースになっているワンピースの制服がとても可愛らしい。縁はレースで飾り付けられ、胸元の赤いリボンがワンポイントになっている。制服目当てにバイト志望する女の子も多く、制服目当てのオタクも多い。カフェにもなっている店内を見渡すと、見るからにオタクだという男がひとり、机の下に携帯電話を構えていて、自意識過剰にキョロキョロしていた。ひかりが睨みつけるとすぐに気付き、怯えて携帯電話をポケットの中にしまっていた。
「ひかり、ちょっと」
 カウンターから沙弥に呼ばれてひかりが腰を上げると、沙弥は嬉しそうな顔をした。
「マネージャーが特別に安くしてくれるって。賞味期限ギリギリのものだけど、半額以下だし、何か買っていかない? 年内最後の贅沢に」
「そうだね、普段あまり食べないし、たまには買っていこうか。沙弥は何食べる?」
「ひかりが先に決めてよ」
「そうだな……」
 ショーウィンドウを真剣に覗く。ひかりは甘いものが苦手だから、出来るだけ甘くなさそうなものを選ぶ必要がある。もともとの値段が普通のケーキ屋の倍はするから、絶対に失敗は出来ない。真剣なひかりの表情を、沙弥は楽しそうに眺めていた。
「このビターチョコレートのものにする」
「ひかりはこれだと思ったよ」
「本当に?」
「うん。甘いもの苦手な人は大体これだから。ビターも人気あるし、絶対おいしいよ」
 沙弥はひかりの分をトレーの上に取り出すと自分の分にもオーソドックスなイチゴの粒が大きいショートケーキを取っていた。
 そろそろ店じまいの時間になる。オタク男が外に出たのを確認してからひかりも外へ出て、ケーキの箱を持ち沙弥を待っていた。見上げる夜空は狭く、数えるほどしか星が見えない。
「ゴメンネ、待った?」
 しばらくすると、沙弥が小走りでやってきた。
「いいよ。私が勝手に来たんだし」
 沙弥はクリーム色の女性的なデザインのかわいらしいコートを羽織っていた。ピンクのマフラーがとても似合っている。暗くても、沙弥の可愛いらしい顔立ちはよくわかった。並んで、終電に近い時間の電車に乗るために駅へ向かう。
「珍しいね、ここまで迎えに来てくれるのも」
「心配だったから」
「……竜也のこと?」
 沙弥の声音に暗いものが混ざった。
「大丈夫だよ。この前会ったのは偶然で、わたしの家もバイト先も知られてはいないから」
「あぁいう執念深い男は何をしてくるか分からないんだ。自分の望みのためなら――沙弥を呼び戻すためなら、人さえ殺すかもしれない」
「突飛過ぎるよ。考えすぎだって。そんなこと出来ないって」
「そうかな」
「そうだよ」
 沈黙が落ちる。沙弥は用心しなさすぎに思えた。人間の短絡さ、もろさ、理性のなさを理解していない。あの男は危険だ。ひかりは自分の直感を信じていた。
「……何も解決してなさそうに見えたしさ」
 ひかりが言うと、沙弥は少し悲しそうな顔になった。
「逃げちゃったからね」
「それはそれで正解だったんじゃないか。話が通じるような相手には見えなかったし、まともに話せば軟禁でもされてたんじゃないか?」
「大げさ、って言いたいんだけど、それはありそうなのが怖いよ」
 沙弥はため息をついた。駅の改札を潜るとホームに人はまばらだった。ひかりは片手を沙弥の腰に回し守るようにして電車を待った。沙弥は黙って寄り添っている。目を閉じ沙弥の温もりだけを感じていると、世界はこのまま止まったように思えた。いっそこのまま止まってくれてよかった。静寂をつく轟音に、目が覚める。
「行こう」
 呟いた言葉に沙弥が頷いて、気だるい空気の流れる場所へ踏み入れる。





 警戒していた。しすぎるくらいかもしれなかった。少しでも暇があれば、向井竜也に会った駅へと向かい、そっと人の流れを注視していた。あの日は偶然通りかかった時に沙弥と元彼氏の姿を見かけたが、今は意図的に向井竜也の姿を探している。見つけて、自分が何をするつもりなのかは分からなかった。言いたいことは山ほどある。今後沙弥には一切近づくな。沙弥の自由を奪うな。お前に、そんな権利はない。
 日中駅に立っているわけにもいかず、改札口の見えるコーヒーショップの中で五時間居座ったこともある。タイミングが悪いのか、先日が本当に偶然だったのか、向井竜也の姿を見つけることはできなかった。そうしているうちに、こんなことをしている暗い自分がたまらなくイヤになり、数日後にやめた。こんな自分、おかしい。
 年越しは沙弥の部屋で過ごした。ベッドの足元に大きなクマのぬいぐるみが置いてあって、そのクマはいつも笑顔だけど、なぜか見張られているような気がした。沙弥は缶チューハイ、ひかりは日本酒を飲みながら、明るいだけが取り柄のテレビをぼんやり見ていた。ベージュの温かいラグマットの上に置かれた赤いソファーで、沙弥はひかりに寄り添っている。あまり言葉はない。ふたりはこんな形が落ち着いていた。キスしたり抱き合ったりしなくても、寄り添っていればそれで十分だった。今は。
 シャワーを交代で浴び終え、ふたりは部屋着でいた。
「ねぇ」
「何」
「もうすぐだね、年越し」
 沙弥が呟くと、ひかりは壁にかかった丸い時計を見上げた。
「年越しソバ食べる?」
「いらない」
「私は食べたい」
「じゃあ一人前だけ作るよ」
 立ち上がった沙弥に、ひかりは声を掛ける。
「ありがとう。でも沙弥も少し食べて」
「ありがと」
 沙弥が隣から離れると、ひかりは目の前に置かれていた沙弥のピンクの携帯電話を目に止めた。スワロフスキーで花や涙のモチーフを飾り付けてある。確か沙弥は趣味でアバターをやっていた。月に三千円くらい掛けて、自分の分身に飾り付けている。以前見せてもらったものは、沙弥の姿とは大分かけ離れた、黒く長い髪の女の子が赤い着物を着ているものだった。背景は夜の夏祭り。今はどうだろうと思い開いてみる。待ちうけは以前写メで撮ったひかりと沙弥のツーショットだ。少し恥ずかしい。
 ふと不安が押し寄せて、着信履歴を見てみた。着信も発信もひかりからがダントツで多く、後は登録されていない知らない番号ばかりがあった。沙弥はふんわりした外見にしては意外と数字を覚えるのが得意で、電話番号くらいだったらすぐに覚えられる。だから良くも悪くも元彼氏と思しき人物からの着信があったのか分からない。メモリに登録されているのは、ひかりとバイト先だけだった。アバターを見てみると、パーマを掛けた女の子がウサギ耳のバンドをつけて、パステルピンクのワンピースにパステルイエローのカーディガンを重ね着している。これだけだったら沙弥らしいと思えるのだが、なぜかいかつい赤いエレキギターを肩から掛けていた。アバターを見るたびに沙弥の嗜好が分からなくなる。
「できた」
「ありがとう。早いね」
 沙弥は出来立ての年越しソバをひかりの前においてくれる。テンカスがちょうどいい具合に乗っていて、湯気と一緒にいいにおいが香ってくる。
「おいしそう。いただきます」
 ひかりが食べるのを、沙弥は嬉しそうに見ていた。誰かに見られながら食べるのが慣れなくて、自分の箸を沙弥に渡した。
「おいしいよ。沙弥も食べてみてよ」
「うん。じゃあ、一口だけ」
 ぴったりとひかりの隣に座った沙弥も少しだけ口をつけた。
「おいしいね。我ながらよく出来た」
「いいお嫁さんになるね」
「携帯見てたの?」
 沙弥は置いてあった場所から動いた携帯にすぐに気付いてひかりに聞いた。ひかりは食べながら答える。
「アバター。また可愛くなった」
「これね、すごく楽しいよ。ひかりもやればいいのに」
「金かかるんでしょ」
「ひとつくらいお金掛ける趣味があったっていいと思わない?」
「あ、もうすぐ日付が変わるよ」
「ちょっと聞いてよもう」
 テレビの中の派手な蝶ネクタイを締めた司会者がカウントダウンを始める。ひかりと沙弥も手を繋いで時計に注目した。
 ――十・九・八・七・六……
「五・四」
「三・二……」
 ……一――
「あけましておめでとう」
「今年もよろしくね」
「うん」
 テレビの中から派手な演出が小さな世界を彩っている。しかしそれよりも小さなひかりと沙弥のふたりだけの世界は、年明けという一瞬の時間に濃く深くなり、永遠とも思える長いキスと共に、何にも変えがたい至福の時間を迎えた。このまま空気に溶けて、幸せだけを噛み締めていたかった。
 今のこの時間さえあれば明日なんていらなかった。





*****





 変わらない日常が不気味だった。
 平穏というものに慣れていない沙弥は、この穏やかに流れていく時間が奇妙で居心地が悪く、落ち着かなくなる。
 いつも暴力に怯えていた。男からの、一方的な、理不尽な暴力。今まで付き合った男は、みな一様に沙弥に殴る蹴るを繰り返してきた。
 ……どうしてだろう。自分がそうさせてしまうのか。自分の、一体何がいけないのか。
 だけどそんな時代ももう終わったはずだ。もう平和に慣れてもいいんだと、自分に言い聞かす。ひかりと出会ってから、一度だけ元彼氏に偶然出くわすことはあったが、それ以外は何も問題はない。幸せを、手に入れたんだ。
 しかし、心の奥底で沙弥は寂しかった。女のひかりでは満たされないものをほしがっている。沙弥は寂しい。
 どこへも辿り着けない八方塞の気持ちとジレンマで、沙弥は身体を壊しつつあった。あまり食欲もなく、たった十日で三キロ痩せた。ひかりはやさしくしてくれるが、それだけではダメだった。それでも、ひかりが傍にいなくても壊れてしまう。
 ひかりと一緒にいたい。だけど、沙弥は男の身体を求めている。ひかりが性転換手術をしてくれればいい。そうすれば、沙弥の心は幸せになる。平穏や平和に、恐れずに立ち向かうことが出来る。しかしまさかそんなことひかりに言えなかった。
 バイトにも身が入らず、体調不良を理由に早退した。化粧でごまかしても浮き上がってくる青白い顔に、すれ違う人が振り返った。それだけひどい顔をしているんだと思うと、笑えてくる。
 ひかりの喫茶店に行こうか。沙弥が足を向けようとした時、目の前に自分より大きな誰かが立ちふさがった。体調不良から頭が回らず、それが誰なのか声を聞くまで全く分からなかった。だって格好は黒髪にビジネススーツと黒いコートだ。
「久しぶりだね」
 懐かしい声。そしてもう聞くこともないと思っていた声。この声に何度恐怖に怯えたことだろう。ありえなさに、声も出せずに驚愕した。
「どうして……」
 沙弥が言えたのはそれだけで、青白い顔はさらに生気をなくし、思わず一歩下がるのと同時にふらついて地面に膝をついた。
 白昼で人が多く歩いている道端だというのに、彼は沙弥に一切手を差し伸べようとしなかった。
「探したよ」
 向井竜也の執念深さを、沙弥は甘く見ていた。彼の口元に浮かべた笑みは冷たく見えるだけ。沙弥を見下す彼の両手はポケットに入れたまま外に出る気配もない。自分さえよければそれでいい男。沙弥を道具にしか思っていない男。
「帰ろう」
 それだけ言って、向井竜也は沙弥を睨んだ。真っ黒い目の奥は決して笑わず、沙弥を支配しようとする威圧のオーラを全身から放っている。
「……こんな時間に、仕事はどうしたの」
「暇をもらった」
 その言葉の意味するところを沙弥には理解できなかった。この男はそもそも遊んでばかりで仕事をしていない。いつもと違う服装を尋ねるのも怖い。
「イヤよ。帰らない」
「どうして」
「はっきり言わないと分からないなら言ってあげる。わたしたち、別れよう」
 沙弥が勇気を出したその瞬間、時間が止まった。凍えそうな空気が流れる。震えを押し殺し沙弥がはっきり放った言葉は、向井竜也の口元を不気味に歪めるだけだった。
「何言ってるの。俺たちは永遠だって約束したじゃないか」
「あなたが暴力さえ振るわなければよかったの」
「お前が悪いんだろ。俺の言うことを聞かないから」
「ふざけないで」
 沙弥は逃げなかった。逃げたら掴まると思った。この体調不良では、何もかも不利すぎる。胃が気持ち悪い。まだ立ち上がれない。
「あなたの傍にはもういれない」
「……あの女か」
 突然トーンダウンした低い声に、沙弥はビクッとした。
「少し調べたよ。栗田ひかり。二十三歳フリーター。同性愛者」
「……どうして」
「邪魔だと思ったからさ。あれは悪魔だよ。俺と沙弥の仲を邪魔しようとしているんだ」
「違う」
「違わないさ。現にあの悪魔さえいなければ俺らは上手くいっていた」
「違うわ。ひかりは関係ない。すべてはあなたの暴力よ」
「俺に暴力を振るわせたのはお前だ。お前が悪い」
 気持ち悪かった。このまま気絶したかった。だけど、そうしたらきっと向井竜也に連れてかれてしまう。そうなればまた地獄の日々が待っている。想像しただけで吐きそうだった。
「ふざけないでよ」
「ふざけるなはこっちの台詞だ。……帰ろう。俺の言うことさえ聞いてくれていればいいんだ」
「イヤ。あなたにはついていけない」
 話は平行線だった。この時間、ひかりはまず間違いなくバイト先にいる。助けは来ない。
 ……自分で何とかしなければ。
 沙弥は、バックの中にある防犯ベルを握り締めた。役に立つのかは全く分からないけれど、何もないよりずっとマシだった。
「別れよう。わたしたちにはそれしかないよ」
「それはお前の一方的な意見だろ。俺の話も聞けよ」
「相変わらず人の話を聞いてくれないのね」
「聞いているだろう。お前のことを分かるのは、世界で俺しかいないよ」
「イヤだ、やめて!」
 叫ぶと、頭の中で何かがはじける感覚がした。空っぽの胃の中からそれでも何かが押し寄せてきて、沙弥は我を忘れて一目散に走り出し、目に見えたデパートの中に駆け込んだ。誰もいないトイレの洗面台で吐けるものは全て吐き出した。そうすると少し楽になって、顔を上げ鏡を見るととても人間には思えないほど青白い顔をした自分がいた。振り返ってみても向井竜也はいない。女子トイレだから当然なのだが、今の沙弥には考える力なんてなかった。
 ……よかった、撒けた。
 安堵からか、沙弥はそのまま崩れ落ち、洗面台の前で気を失った。





 歪んで、何も見えなかった。
「気付かれましたか」
 聞き慣れない声がする。自分の体は横になっていた。目を瞬いて滲んでいた涙を端に追いやると、両腕で点滴をされていることに気が付いた。起き上がろうとするけれど、上半身が震えて上手く力が入らなかった。足の先の感覚がない。
「覚えていますか。商業ビルのトイレであなたは倒れたんです」
「あぁ……」
 答えようとして開いた口からは何も出てこなかった。倦怠感と虚無感。涙が流れた。
「救急車で運ばれて今この病院にいるんです。過労と栄養失調、それから睡眠不足。……生活を改善すれば、体調はよくなるでしょう。しかし気がついてくれてよかった。身分証を何もお持ちでないようですね、連絡先が分からず困っていたところです。携帯はロックされていて、調べられませんでした」
 医師らしき男の話を、沙弥は聞くとなしに聞いていた。
 そうか、倒れたのか。
 状況が段々飲み込めてくると、じっとしていられなかった。忘れ去りたい元彼氏の顔が脳裏に浮かんでくる。光のない真っ黒い瞳。全身から放たれるプレッシャー。怖い。ひとりでいたくない。ひかりのところへ行きたい。
 わたしは傷ついた。早く慰めてほしい。
「……帰ります」
「はい?」
「帰らせて」
 肘を使って震えながら気力だけで何とか起き上がる。針の刺さっている部分がちくりとした。点滴はゆっくり落ちている。体内に冷たいものが循環している感覚がある。足をベッドから出して床に置くと、重力に従うように全身で倒れこんだ。衝撃で針がひとつ抜けて、血が滲んでくる。若い看護師が慌てたようにやってきて、沙弥の肩と背中に手を当てた。沙弥はその手を拒絶した。
「わたし、ここにいたくない。早く帰らせて」
「まだ無理です。せめて点滴が終わるまで待ってください」
 若い看護師が必死に説得している。沙弥は全く耳を傾けなかった。今すぐにでもひかりに会うことだけを考えていた。
「イヤだ、今すぐに帰る」
「今動いてもまた倒れてしまいます」
「そんなの知らない。わたしは行くの」
「言うことを聞いて!」
 沙弥は何も聞かなかった。壊れそうだった。狂いそうだった。気持ち悪い。ひかり。ひかりの姿だけ。信じられるのは、ひかりだけ。
 沙弥の瞳は何も映していなかった。
 手を伸ばす。届かない。何も掴めない。
 全身で前へ進もうとするけれど、どうしても動けなかった。涙が出てくる。
 ふと、身体が軽くなった。そう思ったら、また意識を失っていた。





*****





 バイトから帰ってくると、アパートの前にスーツを着た男が立っていた。寒空の下で黒いコートを羽織り、両手をポケットの中にしまいこんでいる。やや上を見上げる横顔は透き通っていてとても綺麗に見えた。住人の彼氏かな。そう推測しながら歩いていくと、通り過ぎざま声を掛けられた。
「久しぶりだね」
「あ、私ですか?」
 ひかりは首をかしげた。しかしそのすぐ後、正面から見た立ち姿と声であの男だと思い当たる。
「あー、沙弥の元彼氏……」
 だけど格好があまりにも違いすぎる。だから単純に驚いてしまった。遊び人のような格好は、真面目なサラリーマンのような姿に変わっている。ひかりが疑問を投げかける前に、向井竜也は嘲笑するように言った。
「元って何。今も彼氏だよ」
「あの子はそう思っていないみたいだけど」
「心外だな。どうしてそうなるのか」
「……なぁ、お前、どうしてこのアパートを知ってるんだ」
 そういえばと、ひかりは訝しい顔を向井竜也に向けた。強い警戒から思わず身に力が入る。
「年末だったかな。あなたが駅をウロウロしていたのを見かけてね。後をつけさせてもらったよ」
「何だって」
 サーっと全身から血の気が引いていくのを感じる。この男を捜していた短い日々を思い出した。しかし見つけることが出来ず、まさか逆に後を付けられてしまうとは想像もしていなかった。自分の不注意を呪う。
「あなたに聞けば分かるはずなんだ。沙弥は一体どこにいる?」
 穏やかな口調だが、恐ろしいほどの威圧感。夜の空気は凍り付いていた。
 しかし聞かれてはいそうですかと素直に教えるわけがない。
「……沙弥をどうするつもりなんだ」
「連れ戻す。それだけだよ」
 ほんの少しだけ、向井竜也が幸せそうな顔をした。
「連れ戻して、その後は?」
「以前と変わらない暮らしがしたい。俺には沙弥が必要なんだよ」
「以前と変わらない暮らし?」
 ひかりは違和感を覚えた。沙弥が出て行った理由。それはこの男の暴力にある。それがそのまま以前と変わらない暮らしになるのならば、反省されないのであれば、同じことが繰り返されるのではないか。沙弥は、延々と暴力を受け続けることになる。
「それは、お前のためになるかもしれないな。だけど、沙弥のためにはならない」
「あなたは何を知っているっていうんだ。俺と沙弥は愛し合っている。一緒にいるには十分な理由じゃないか」
「一方的過ぎる。沙弥の気持ちはどうなるんだ」
「沙弥だって俺のことを愛している。沙弥は俺のものなんだから、俺の言うことだけ聞いていればいいんだ」
「最低だな、お前」
 ひかりは向井竜也を睨み付けた。向井竜也はポケットから手を出さないまま、顎を上げて涼しい顔をしている。
 ひかりは決めた。この男から徹底的に沙弥を守る。この男に沙弥を渡してはいけない。この男は沙弥を地獄に落とすだけだ。沙弥に幸せはない。
 具体的にどんな暴力を受けていたのかは知らない。だけど沙弥の体中に染み付いている痣と、この男の冷たい目元が血のにおいすら想像させる。
「沙弥はどこにいる?」
 最初の質問に戻った。
「お前に教える理由はない」
 頑なにひかりが言うと、向井竜也の目じりが吊り上がった。
「……あなた、偉そうだな。女の癖に」
「お前よりマシ」
 睨みあう。ひかりは譲るつもりはない。
「あなたに頼んでも無駄なようだ。だけど沙弥が見つからない限り、あなたに頼るしかない。今度来る時までに、沙弥の居場所を探して俺に教えるように。沙弥は俺の女だ。誰であろうと、沙弥を俺に渡すように出来てる」
「意味がわかんないな。それから二度と来るな」
 踵を返す向井竜也の背中をひかりは睨み続けた。後姿は不気味なくらい清潔感が漂っていた。その背中が見えなくなってもひかりは虚空を睨み続けた。
 見上げれば、月が出ている。少しだけ星も出だした。
 人が厄介な人物と対峙しているときでも太陽はひたすら燃え続けている。空気は存在している。当たり前のように呼吸をしている。
 ひかりは、死にたい。いつ死んでもいい。慢性的なその思いはずっとずっと変わらない。だけど、自分が死んだら沙弥を守れる人はいない。
 強くなろうと決めた。身も心も、どれだけできるかわからないけれど、沙弥を、ひとりの女の子を守れるくらいは強く。強くなろう。沙弥の幸せを見届けられたら、その時に、死のう。
「ごめんね」
 ありえない声が聞こえて、反応できるまで数秒かかった。驚いて振り向けば沙弥がいた。心配そうな顔でひかりを見上げている。
「どうしてここにいるんだ?」
「ひかりに会いたくて。でも来てみたら竜也といたでしょ。ひかり怖い顔してたし、出て行くべきだったんだろうけど、怖くて隠れてて」
「出てこなくてよかったよ」
 出てこられたら、話はこじれていた。
「ごめんね、嫌な思いさせたよね」
 心配そうな顔で沙弥はひかりを見上げた。
「沙弥が悪いんじゃないよ」
 ひかりは、夜の中でも沙弥の微妙な変化に気付いた。手を伸ばして、その頬に触れる
「少し、痩せた?」
「そんなことない。ひかりの細くて綺麗な手、好き」
 ひかりの手に自分の手を重ね、沙弥は目を閉じる。その表情を見ているのは好きだった。
「中に入ろうか」
 ひかりが言うと、沙弥は頷いた。





「竜也と出逢ったのはね」
 沙弥が話し出した。
「ひかりと同じ、出会い系だった。そこはね、男性は有料の会員制のサイトだったの。歳も近かったし、頭がいいみたいだから興味を持って、メールのやりとりから始まった」
 自分と似た始まりだ、とひかりは思った。沙弥がひとり言のように話すのを、黙って聞いている。
「会ってみたら、すごくやさしい人で、わたしの過去を知っても悪く言わずに全て受け止めてくれた」
「過去?」
 何か引っかかって思わず呟くと、沙弥が反応して少し睨まれた。
「全部聞いて」
「あぁ、ごめん」
「……信じられるって思った。この人なら、わたしの全部あげても、全部受け止めて受け入れて、絶対にわたしを傷つけないって。絶対に守ってくれるって。実際にそうだった。――竜也のバイト先が潰れるまでは」
 沙弥が自分の肩を自分で抱いた。ひかりは暖房を何もつけていなかったことに気付いて、エアコンを入れる。ブーンという重低音。気付いた沙弥が顔を上げると、ありがとう、と言った。コーヒー淹れようか? ううん、いい。
「元々遊び人だったんだけど、どうしてかそれから竜也、必死でバイトを探していた。結構いい年だし、男子で収入がないのはよくないでしょ。……でも、探している振りをして遊んでるの、わたしには分かってたんだけどね。ただ、その頃から、わたしへの束縛もひどくなったの。電話がすごくかかってきて、すぐに出れないと『何してたんだ』って。ちょっと、いくらなんでもおかしいなって思い始めた。わざと着信を無視したら、その日、帰ってくるなりわたしを携帯で殴りつけた」
 ひかりは沙弥を見た。沙弥は無表情だった。
「怖かったよ。笑顔で、『どうして電話に出ないんだ。お前は何のためにいるんだ』って。意味分からなくて、答えられないでいたらまた殴られた。……暴力振るう人とは一緒にいられないと思って、別れを切り出したら、土下座されて。『殴ってごめん。でも、電話に出ないお前が悪いんだ。殴ったことは謝る。だから、別れるなんて言わないでくれ。俺はお前がいないと生きていけないんだ』って。そう言われて、うれしかった。必要とされてるっていうのは、すごく安心するの。だから別れるのは止めて、付き合い続けた。……同じようなことを繰り返しながらずるずると」
「…………」
「何度殴られても、やさしくされる度に何度でも信じた。だけどね、決定的なことが起こったの。竜也はわたしが眠っている間に、わたしの足をベッドの足とロープで縛り付けた。まるで軟禁だよ。以前ひかり言ってたよね、『軟禁でもされるんじゃないか』って。……もうされてた後だったよ」
 沙弥に表情はなかった。ひかりは沙弥をまともに見れなくて、沙弥のスカートの裾のレースのひだに目を落としていた。
「バイトにも行けないし、これには参って、ロープ切ろうとして、ハサミやカッターで切ってみたんだけど、太いロープだったからなかなか切れなくて。そのうち夕方になって夜になって、竜也が帰ってきて、ハサミを持っているわたしに笑顔で『何やっているんだ』って。また殴られて。『お前がいい子じゃないからいけないんだ。大人しく俺の言うことを聞いて、言うとおりにしていればいいのに、そうしないから、こうせざるを得ないんだ。俺だってこんなことしたくないよ。だけどお前が悪い。お前が悪いよ』って。わたしは馬鹿みたいに泣きながら、そうだよね、わたしが悪いんだよね、って。何度謝っても許してもらえなくて。……竜也はね、わたしだけを見てた。わたしだけを見てくれてた。だけどそれが強すぎて、わたしには重かった。電話に出るのが一秒でも遅ければ『どうしてすぐ出れるようにしておかないんだ、お前は俺のことだけを考えていればいい、ほかの事を考えるな』って。監視されているみたいで、気の休まる時間がなかったの。隙を見てやっとロープが切れたら、逃げ出した。携帯を捨てて、そのときしていたバイトも辞めて、竜也から逃げ出した。住む場所がなかったから、漫画喫茶とか行ったよ。ちょっと辛かったけど、竜也から逃げ出せたことを思えば苦じゃなかった」
「……うん」
 ひかりは沙弥の泣き出しそうな目元を見た。
「竜也のことは好きだった。でも、今はもう好きじゃない」
 沙弥の肩が震えだす。何を言えば沙弥のためになるのか、何をどう言えば沙弥が安心するのか、ひかりは考えてみるが分からず、それでも何かしたくて沙弥の手をギュッと握った。
「うん。知ってるよ」
 少しだけ笑った沙弥は、すぐに真顔に戻るとひかりを見て少し恥ずかしそうに顔を伏せた。
「本当に好きだったんだよ。だけど、わたしの好きな竜也はもういない」
「分かったから」
「心の底から愛してた。だけどもう、耐えられない」
「辛かったね。もういいよ」
 ポロポロと涙を流す沙弥を、ひかりは抱きしめた。ひかりの胸の中で、沙弥は何度も「好きだった」と繰り返した。
「もう怖い思いすることはないよ」
「だけど、ひかりの家がばれてる。ひかりにも迷惑掛けちゃう」
 沙弥は涙目で心配そうにひかりの顔を覗き込んだ。沙弥を安心させるように、ひかりは出来るだけやさしく笑ってみせた。
「迷惑とか思わなくていい。私はそれなりに強い」
「信じていいの?」
「もちろんだよ」
「ひかり……」
 沙弥は強い力でひかりに抱きついた。その力に応えるようにひかりも強く抱きしめる。
 ひどい話だと、ひかりは思う。男は女になら何をしても許されると思っている。だから男は嫌いなんだ。
「ひかり」
「うん。ここにいるよ」
 お互いの体温を確かめながら、ふたりはしばらくそのままでいた。沙弥が眠るまで、ひかりはずっと沙弥の背中を撫で続け、眠ってもその寝顔をしばらく見つめていた。










 突然目の前が真っ暗になった恐怖は今でも忘れられない。
 十四年前、ひかり一人を残して、一緒に住んでいた家族はみんないなくなってしまった。当時七歳だったひかりには何が起こったのか、理解することなんて到底できなかった。事は全てが終わってから知った。
 無理心中。
 父親がキッチンから包丁を持ち出し母親を殺し、ひかりを刺し、まだ五歳だった弟も刺した。そして父親は家中に油をまき火を放ち、自殺した。壮絶な家族の断末魔の叫び声を聞いた近所の人から連絡を受けた警察が駆けつけたときには、家の中は地獄絵図のようになっていたという。刺し傷が急所を外れ、たまたま火の気のない場所にいて、蹲っていたからか煙もあまり吸わなかったひかりだけはかろうじて一命を取り留めた。
 しかしその後行く場所はなくなり、頼る人もなくなり、縋る人もなく、ただただ途方に暮れた。事件の真相も掴めない。当時の新聞記事だけなぜか捨てることが出来ず、後生大事にとっておいてある。なぜ、どうして父親があんな事件を起こしたのか、どんな思いを持っていたのか全く分からないし、今になって分かりたいとも思わない。
 置いていかれた。捨てられた。
 子供ながらに感じた絶望が、今も尚トラウマのように残っている。
 ――誰もが誰かの傍からいつかは去っていく。
 依存してはいけない。頼ってはいけない。結局最後はひとりなんだ。
 引き取ってくれた遠い親戚だという自称祖母にも心は開けなかった。いつも一緒にご飯を食べていた、一番安心感を与えてくれていた、そんな人たちが突然いなくなる。心を開いても、この人もいなくなってしまうかもしれない。トラウマから友達なんて作れなかった。
 変わることが出来ないまま、時を追うほどに身長だけ伸びた。高校生の時にひとりの男子と付き合ったが、妙な違和感がありすぐに別れ、その後告白してきた女子と付き合ってみたらしっくりきた。そして自分が同性愛者だと気付いた。そしてそれは、自然の摂理に反する世間に受け入れられない存在だとも知った。
 高校を卒業後、大学に行くお金なんてなく、アルバイトを始めた。二十歳を過ぎ、笑い顔で反対する育て親を説得し(彼女らはすぐに折れた)一人暮らしを始めた。これ以上誰かに迷惑を掛けたくなかったし、何よりひとりで生きていきたかった。
 いつ死んでもいい。死んだ先には、あの暖かな家族が待っている。自分が死んだ時、誰も悲しまなくていいように、極端なほど人付き合いは避けた。
 だけどひとりでいるのは寂しいときもあって、いつからか出会い系にはまった。インターネットで調べれば、自分と同じような同性愛者はたくさんいた。チャットやメールを多くやっているうちに、ネカマや冷やかしはすぐに分かるようになった。覚えきれないくらいたくさんの女の子と出会ってはすぐに別れてを繰り返した。
 自分は完全なレズビアンだから、バイセクシャルの女の子はいつも少し警戒していた。男がしゃしゃり出てくることもよくあるからだ。「男が好き」と言われてしまえば、絶対に敵わない。
 沙弥がバイセクシャルだと、出会う前、メールのやりとりだけの時点で知っておくべきだった。そうすれば、DVなんかに巻き込まれなくてすんだと、心の弱い部分が叫んでいる。馬鹿げた男に向き合う必要もなかったと。だけどもう仕方ない。ここまできたからには、絶対に沙弥を守りきる。
 物音がした。目が覚める。夢を見ていたような気がするけれど、思い出せなかった。小さなソファーで眠っていたせいで体中がギシギシしていた。起き上がった姿勢のままベッドを見ると沙弥の姿はなく、毛布もきちんと畳まれていた。窓が開いていて、午前の風にカーテンがふわふわ揺れている。見慣れない太陽の光。眩しくて目を細める。次に寒いと思った。
「沙弥?」
 呟くと、物音がしているのがキッチンからだと分かった。覗いてみると、髪をまとめた沙弥が汗までかいて掃除をしている。
「ひかり、起こしちゃった?」
「それはいいんだけど、何やってるの」
「見て分かるでしょ。掃除。気になりだしたら、落ち着かなくて。あ、スウェット勝手に借りちゃった」
「いいよそれくらい」
 伸びをして立ち上がる。寝起きのまま沙弥を抱きしめに行くと、彼女はくすぐったそうに身を捩じらせた。
「ひかりって、こういうところ男の子みたいだよね」
 沙弥は目でキレイにしたシンクを示し、にっこり笑う。
「キレイなほうが気持ちいいでしょ」
「うん。ありがとう」
 ひかりは、どう言葉を紡いでいけばいいのか分からなかった。元彼氏のことはもういいのだろうか。いや、いいわけがない。しかし何だこの変わり身は。昨日まで泣いていた女の子はどこへ行った。そのことについて話さなければいけないと思うが、話し出していいのかわからなかった。
 腕の中のぬくもりはそっと離れ、楽しそうに笑った。
「もう少し掃除したいから、ひかりはゲームでもしててよ。今日バイトだっけ? もうすぐお昼の時間だよね。有り合わせで何か作ってあげる。待ってて」
「あ、あぁ」
 まるで奥さんだ。言われるままひかりはソファーにとりあえず座ってみた。沙弥の働いている音がする。ジッとしているとなんか落ち着かなくて、何でもいいから動きたくて、着替えてみた。黒ずくめのファッション。いつもバイトへ行く時の格好。黒が一番好きだ。
 テレビの前に座ると、繋ぎっぱなしにしていたゲームのスイッチを入れた。聞きなれた音に、コントローラーを握る手先は反応して考えなくても画面の中は進んでいく。
 ……しかし言われるがまま、こんなことしていていいのだろうか。
 ゲームのコミカルな音が繰り返されていると、日常と非日常の区別がつかなくなってしまう気がして、今そんな状態に陥るのはまずいと理性を保ち電源プラグを一気に抜いた。ゲームなんてやっている場合じゃない。
 ベッドに仰向けに倒れこむと、やっと気持ちが落ち着いてきた。今日のシフトの時間を思い浮かべる。沙弥をどうしよう。このままひとりで帰すわけにはいかない。この家はDV男に知られているから、あの暇人にいつどの時間に張られていてもおかしくない。
「お待たせ、やきそばくらいしか作れなかった。ひかり、もっと冷蔵庫に食材入れておいたほうがいいよ。フルーツ食べるのとか、結構大切なんだよ」
 ひかりは起き上がると、沙弥を見た。口調は明るいが、化粧をしていない顔からは疲れが隠せないでいた。二十八歳にもなると、少し手入れを怠れば肌はすぐに不機嫌になる。お皿を置いてくれたテーブルにつくと、ひかりは手を合わせた。
「ありがと。食べていい?」
「どうぞ」
「いただきます」
「おいしくできたかな」
 沙弥はいつも自信がなさそうにするが、料理の腕はある。少なくともひかりの舌との相性はいい。黙々と食べ始めると、沙弥は嬉しそうな顔をした。すぐに食べ終わりお腹が満たされると、逃げるわけに行かない問題に向かう気になった。
「聞いていいか?」
 ひかりが感情のない声で言うと、沙弥は心なしか身を固くした。
 沙弥を傷つけずにすむには、どうしたらいいんだろう。ひかりは沙弥の膝にあった手を両手で取った。
「DV男の仕事を教えてほしい」
「どうして?」
「沙弥を無事に送り届けるため。昼間働いているなら、そのうちに帰ったほうがいいし、早寝早起きの習慣でもあるなら、夜遅くの方がいい。あの男は危険すぎる」
「……竜也はわたしたちと同じでフリーターだよ。でも、今は何をしているのか、正直分からない。なんか感じ変わったし」
 沙弥の表情が暗くなる。
「そうか」
 最初駅で見たときと、このアパートの前で見たときの違いは、間違いじゃなかったのか。だったらどの時間帯が一番安全なのか、皆目検討もつかない。
「今日バイトは?」
「あるけど、変わってもらう」
「そうしてもらったほうがいいな。私が帰ってきたら送るよ。夜遅いほうがいいかも。それまで、ここを出ないで」
「ねぇ、わたし、帰らなきゃいけないの?」
「え?」
 沙弥が真面目な顔をして聞いた。ひかりは沙弥が何を言い出すのか分からなかった。
「ずっとここにいちゃいけないかな。家にひとりでいるのとか、怖いよ」
「…………あぁ」
 そうか、沙弥の気持ちを考えていなかった。ひかりよりも当事者である沙弥の方が何百倍も恐怖でたまらないだろう。
「バイトももう、辞めるよ。……怖い、ひかりといたい」
「うん」
 ひかりは、沙弥の目を真っ直ぐに見た。近寄って頭を撫でてあげると、沙弥は子猫のように目を細めた。女の子に甘えられるのは心地いい。
「ずっとここにいればいい。沙弥が望むなら、ずっと一緒にいるよ」
「ありがとう」
 沙弥は幸せそうにひかりの胸に飛び込んだ。その背中を撫でてあげる。
 痛んだ沙弥の髪が一本窓からの光に照らされて白く見えた。どんなに童顔で若作りもしていても、沙弥はもう二十七歳なのだ。何でも出来るこんないい時期に、この娘はどうしてこんな場所にいるのか。ひかりは、客観的に沙弥を見ている自分に気がついた。
 ひかりは、暗い暗い奈落の底に落ちていく感覚がしていた。一度落ちてしまえば、這い上がることはもう出来ない場所。だけど、たとえどこに落ちたとしても這い上がる必要もないかと思い直す。いつ死んでもいい存在だ。誰かに必要とされるなら、それは自分にとってこれ以上ないくらい意味があることなのではないか。
 沙弥を抱きしめながら、それでもひかりはどうしてか途方に暮れる心地がしていた。





*****





 ひかりがバイトに行くのを見送ると、沙弥はどうしようもないくらいの絶望に襲われた。その絶望は、ひかりの胸の中で彼女の体中からひしひしと感じていたものだ。それが、自分にも伝染した。
 ――ひかりが、自分を重荷に思い始めた。
 そう思い始めたら、いてもたってもいられなくなった。だけどここからどこかに行くわけにも行かず、全身が震えそうになるのを自分で自分を抱きしめることで必死に押し殺していた。
 誰かが見ていてくれないところで、家事だろうが何だろうが働く気にもなれず、沙弥はひとりで泣いた。
 自分はどこにもいけない。何にもなれない。たったひとりだ。
「思えばね」
 沙弥はひとり窓から見える空に向かって呟く。
「思えば、わたしが竜也の言うことを聞いていればよかったの。言うとおりにしていれば、こんなことにはならなかった。竜也をストーカーまがいにさせることもなかったし、誰も傷つかずにすんだ。……わたしが悪い」
 沙弥は自分で自分を抱きしめる。今度は別の意味で。まだ残っているひかりの温もりをかき集めるように、強く抱いた。
「だけど、竜也と一緒にいるのはもう辛い。辛いの……」
 最初はやさしかった。なのにどうして、どうしてああも豹変してしまったのだろう。
「怖いよ」
 ひとりでいることが、たまらなく怖い。本当は、ひかりにバイトにも行ってもらいたくなかった。ずっとずっとそばにいてほしかった。守ってくれなくてもいいから、そばにいてほしい。それだけで、自分はかなり救われる。
 みんなみんな、自分から離れていく。暴力を振るい、罵り、嘲り、ボロボロにしてから捨てる。男はみんなそうだった。女はそっと距離をとっていく。
 沙弥は付き合った人数は多いが、自分から振ったことは一度もなかった。みんな自分から離れていく。
 〈使い捨てのお人形〉。大分前に付き合った人のブログにはそう書かれていた。〈好き好き言われて付き合ったんだけどさぁ、全然ダメ女で。俺の言うこと全く分からないんだよね。学習能力がないっていうの? それにさ、家事全般全部下手。何をやらせてもまともに出来たためしはないし。俺が家事やったほうが絶対効率いいんだよ。でもさぁ、女の仕事とるの悪いじゃん。親切でやらせてやったってわけ。まぁ可愛いし、向こうが好きだっていうから結婚も考えてやったんだけど、俺がいなきゃ何にも出来ないダメ女嫁にするのって人生の無駄じゃん。遊ぶだけ遊んで捨ーてーたー。今頃何してるんだろうね、泣いてんじゃない。俺のこと本当に好きなんだって。あーうぜぇ(笑)。あんなダメ女と付き合ってやった俺を誰か褒めて褒めて〉
 これを読んだ時には自分の目を疑った。遊ばれていた自分にショックを受けたし、喜ばれようと必死だった家事も貶されていたなんて知らなかった。それに、彼は仕事をしていなかったから、自分の生活ギリギリまで貯金を崩して彼に渡すこともしていた。ダメなのはどっち。ダメなのはどっちよ。悔しかった。どうしてこんな男ばかり引き寄せてしまうんだろう。
 だけどひかりは違う。自分と同じバイト生活だけど、真面目に働いているし、自分のこともきちんと考えてくれる。やさしい人。
「ひかりだけは絶対に失いたくない」
 だけど、ひかりは自分を重荷に感じ始めた。
 沙弥は泣いた。竜也のところに戻ることも一瞬考えたが、それはもう絶対にイヤだと思い直す。
 好きだよ。好きだよ。ひかりのことが、本当に好きだよ。
『ずっと一緒にいる』
 そのひかりの言葉を信じることしか、今の沙弥には出来なかった。





*****





 ――まだ何かある。
 それはひかりの直感だ。沙弥にはまだ何かある。
 それが何かは具体的には分からないし、本人が言い出さない限り聞き出すのもおかしい。
 考えながら店の裏口を潜ると、店長が待ってましたと言わんばかりの態度でいそいそと近寄ってきた。
「ひかりちゃぁん。聞いて聞いて」
 ランチタイムを終えて一段落した店内には満面の笑みを浮かべとても嬉しそうな店長しかいなかった。
「どうしたんですか?」
「あのね、あのね、彼女がプロポーズ受けてくれたんだ」
 店長はさらりと言ったが、ひかりは驚いて、咄嗟に言葉が出てこなかった。目を大きく見開き、ゆっくりと大きなため息を吐く。
「それは……よかったですね」
 心の底からからおめでとうと思った。今まで見たこともないような店長の笑顔。人の幸せを自分のことよりも嬉しく思ったのは初めてかもしれなかった。
「女ってわかんないね。俺さ、諦めかけてて、別れようかと思ってたくらいなのに、急にオーケーしてくれてさ。舞い上がって彼女の手をとって踊っちゃったよ。自分で思っていた以上に嬉しかったんだ。こんな嬉しいことってあるんだね。今は世界がばら色に見えるんだよ」
「オーバーですよ。でも本当、おめでとうございます。今度写真でもいいから見せてくださいよ」
「えー、やだよ。結婚するって決まってからさらに好きになって、あんまり好きすぎて、箱に閉じ込めておきたいくらいなんだもん」
「……好きすぎて箱に閉じ込める、ですか」
 脳裏に不適な笑みを浮かべた向井竜也が過ぎった。夢から現実に一気に連れ戻される。明るく幸せそうに話す店長も、今はひかりの声のトーンが急に下がったことに気付かなかった。
「そうそう。誰かに見せるなんてもったいないよ。でもひかりちゃんは特別ね。今度写真持ってきてあげる。田中には内緒だからね」
「期待してます」
「そういうひかりちゃんは暗い顔してるけど、何かあったの?」
 指摘されて、ひかりは苦笑した。店長を少し見くびっていた。彼はきちんと、見るべきところは見ているのだ。
「気にしないでください。少し疲れているだけです」
「そう。疲れはお肌に大敵よ。まぁ、でもひかりちゃんはまだ若いから平気か。でもそんなこと言えるのも今のうちだからね」
 いきなり乙女ぶった店長の口調と人差し指を立てたポーズが気持ち悪い。
「何ですかあんた」
「お嫁さんが少し前に若い女の子に言ってたの」
「そうですか。……田中はどうしたんすか? 確か今日入ってましたよね」
 話をそらそう。このまま店長のペースでいたら、何だか無駄に疲れてしまいそうだ。
 この店は、土日は三人の従業員が全員顔を合わせる。タイミングによっては平日でも三人いるし、店長一人で回すこともある。
「『ひかりさんからの宿題忘れてた』って騒いでたよ。暇をあげたらどこかに行っちゃった」
「私からの宿題?」
「覚えがないの?」
「全く」
 沙弥にばかり感けていて、ここでのことはほとんど忘れていた。田中に何かしたか、全然覚えていない。
 ひかりが首をかしげていると、店長は楽しそうに言った。
「田中はひかりちゃんに従順だからねぇ。ひかりちゃんも彼女いるのに、困るよねぇ。もてる女も辛そうだよねぇ」
 自分が幸せだからか、他人のことまでおちょくってくる。笑顔はいいが、ニヤニヤした顔は気持ち悪くて仕方がない。
「そういうんじゃないと思いますけど」
「じゃあ何なのよ」
「女王と召使い」
「あっはっは。傑作!」
 ひかりはあしらったつもりだったが、店長は大笑いしていた。
 カランカランと扉が開き、お客さんが来たかとひかりも店長も身を正した。しかしそこに現れたのは紙袋を持った田中だった。
「お前かぁ。驚かせるなよ」
「ひかりさん、入ってたんすね」
「その袋は何だ?」
「見てくださいよ」
 テーブルの上に田中は紙袋をひっくり返した。冊子が二冊と、数枚のペーパーがパラパラと出てくる。
「『お悩み相談。ひとりで悩んでないでまず電話』……なんだこれ」
 ペーパーを持ち上げた店長が字面を読み上げた。ひかりも同じものを覗き込む。
「おい田中。これはなんだよ」
「何って、DVの相談先ですよ。調べてみたら結構色々あって、端からもらってきました」
「誰がこんなこと頼んだ?」
「悩んでいるようだったので」
「違うよ」
 キョトンとした田中の顔を、ひかりは呆れて見つめた。幸せ店長が少し遠慮がちに入ってくる。
「何、ひかりちゃん、DVにあっているの?」
「私じゃないです。……連れが」
「連れか」
「連れです」
 店長はひかりの言わんとすることをすぐに察したが、田中を気遣って言葉を濁した。
「ひかりさんじゃないんすか」
「だから違うって」
 なぜか田中は少し残念そうに見えた。
「どうした?」
「はい?」
「悲しそうな顔してるぞ」
「田中はひかりちゃんのヒーローになりたいんだよね」
「店長は余計なこと言わないでくださいよ」
 冊子をパラパラと眺める。悲痛な体験話や、法律相談、まともに読んでいたら暗くなりそうな話題が粛々と載せられている。
「だけどいるんだなぁ、こういう最低男。実際俺は見たことないんだけどさ。テレビとかで見ると、本当にそんな話あるのかなって思うよ」
「俺もないっす。そういないんじゃないんすか」
「私も見たことないよ」
「え、でも悩んでるって」
「連れがな。……そういう男ばかり引き寄せる性質があるんだよ」
「性質悪いっすね」
「男は信用ならないみたいだから、私が守る」
「かっこいー」
 ひかりが真顔で呟いた言葉に店長は拍手を送った。
「俺も俺も! ご用があれば呼んでください。力になりますよ!」
 田中は細い腕に申し訳程度に盛り上がる筋肉を見せ付けた。
「いらん」
「そんな冷たいこと言わないでくださいよー」
 泣き声を出しながら手を振っている。どうしても田中は頼りなかった。





 見上げると、アパートの電気がついている。それは少し嬉しいことで、緊張することでもあった。
 いつも開けている扉なのに、新しい世界を開けるような錯覚を起こし、手がもたついてしまう。
 ガチャリとあけると、光のある世界に暖かな空気と暖かな匂い。
「ただいま」
 そう声を出すのは何年ぶりだろう。
「おかえり、ひかり」
 出迎えてくれる人がいる。ひかりが微笑むと、目の前の人は数倍以上も幸せそうな表情をした。





*****





 沙弥は朝ひかりを見送ってから何もやる気が起きず、掃除の続きなんて一切やっていない。沙弥は不自然に思われないように精一杯の笑顔を作ってひかりを出迎えた。ひかりは、気付いていない。
「食材買ってきたよ。あと、牛乳とか、パンとか」
「明日の朝ごはん?」
「うん。沙弥食べるかなって思って」
「夕飯は何作ろうか」
「カレーの材料にした。作るの簡単そうだし」
「じゃあ、作るよ」
 ひかりが差し出した真っ黒いエコバックが何だか愛おしい。沙弥は泣きたくなった。バックを放り出すとソファーに座り着替えもせずくつろぐひかりの背中にすがりたくなる。
 ――お願いだからわたしの情けなさに気付かないで。上辺だけでいいから、きれいな感情でわたしを見て。わたしを守って。料理くらいでいいならいくらでもやるから。暗く深い海のような場所へ沈み続けるわたしに気付かないで。ただずっと一緒にいてくれればいい。そうしてくれればいいから。
 ひかりの存在が嬉しい。そこにいてくれることが嬉しい。涙を流さないように何度も強く目をつぶり、沙弥は料理に取り掛かる。出来上がったものが、おいしいのかどうか、自信は全くなかった。
「私のバイト先に田中って言う馬鹿がいるんだけど」
 沙弥からしたら味のしないカレーを頬張りながらひかりは話し出した。
「そいつがさ、DVの相談先とか調べてくれた」
「え? 何で?」
 驚いて顔を上げる。ひかりは表情を変えずに食べ続ける。
「女に暴力する男をどう思うか、男に聞いてみたんだ」
 男……?
 指先に力が入らず、スプーンを落としそうになった。
 知らなかった。ひかりの世界は完全に女のみで構成されていると沙弥は思っていた。だから、ひかりの口から男の名前が出てくると、新鮮で不思議で、同時に強い嫉妬心も湧き上がって、感情処理をどうしていいのか分からなくなった。ただ、重い衝撃を受けた。
「それで、その人は何て?」
「許せないってさ」
 ひかりの声はやさしかった。
「何かあったら力になるって言ってた」
「そう。知らない人なのにね」
「いい奴なんだよ」
 見ず知らずの人にまで心配を掛けている自分。情けなくてイヤになる。
「なぁ、沙弥」
 ひかりはカレーを食べ終えた。
「何かほしい物はないか?」
「ほしいもの?」
「何でもいいんだ。CDとか、雑誌とか、プリンとか」
「プリンって」
 沙弥は思わず噴出した。ひかりのやさしさは面白い。
「今はいいよ。ありがと」
「……ならいいんだけど」
 行くあてがない。そんな自分を、ひかりは許してくれている。どうして許してくれるんだろう。何も出来ない、ただのお荷物なのに。
 沙弥は涙が出そうになるのを、必死で抑えた。だけど抑えきれずに嗚咽が混じる。気づいたひかりが背中をさすってくれるともうダメだった。次から次へと、涙はどんどん零れ落ちる。
 これから、どうなるんだろう。ひかりも、自分も。少し先の未来を考えると、恐ろしく怖くなった。
「ひかり」
「何?」
「……ううん、何でもない」





*****





「よし、大丈夫だ」
 外にあの男がいないか慎重に確認して、ひかりは沙弥を呼んだ。ひかりの声を確認すると、ひかりの黒い帽子を深めに被った沙弥は素早く部屋から出てきた。久しぶりの外出に、沙弥の目はキラキラと輝いていた。
 今日の天気は快晴だ。雨の降る心配もない。週間天気予報を目を皿のようにしてチェックし、どうやっても絶対に晴れる、そういう日を選んで、店長に無理を言って休みをもらった。
 どこへ行くのか、決まった目的はなかった。外に出て太陽に浴びることが一番の目的だった。手を繋いで、バスに乗る。電車は避けたかった。その間もひかりは付けてくる人物がいないか慎重に回りに意識を向けていた。
 とりあえず向かってみた市民公園は、冬だからか平日だからか人は数えるほどしか人がいなかった。縮こまって立ち並ぶ木々に沿って、赤く舗装された遊歩道をゆっくり歩く。
「久しぶりだね、こうやってデートするの」
「どこか行きたいところあるか? 今度いつ外に出せるか、正直分からない。だから今日中に……」
「わたしはひかりといれば大丈夫。心配しないで」
 沙弥は木漏れ日のように笑う。いつもの暖かな笑顔。だけど日に日に少しずつやつれ、顔色も悪くなっていっていることにひかりは気付いていた。本人が無理して笑うから、せめて沙弥の望みは出来る限りかなえてあげたかった。だけど沙弥は「大丈夫、大丈夫」と呪文のように繰り返すから手を差し伸べる隙がなく、助けになりたいと持て余した気持ちをどうしたらいいのか。今日はひかりにとっても息抜きになる。
「ちょっと寒いかな」
「何か飲む? 自販機あったよ」
「うん。じゃあ」
 晴れた寒空の下、ゆっくり歩いた。時々思い出したようにボソボソ会話をしては、お互い何か考え込むように黙り込む。沙弥はひかりが購入した温かいペットボトルのお茶のキャップを開けずに、時々頬につけていた。沙弥の吐く白い息を見るとひかりは安心する。ちゃんと生きてる。呼吸をしている。
 歩きつかれて、道沿いにある木製のまだ新しいベンチに腰を下ろした。ふたりしてボーっとウォーキングをしている人や犬の散歩をしている人を眺めていた。
 青い空に浮かぶ雲。
 落ち着いてくると、おなかが空いた。
「ラーメン食べたい」
「またラーメン?」
 沙弥はクスクス笑う。見慣れた笑顔に見惚れていると、沙弥は立ち上がった。
「行こう」
「いいの? ラーメンで」
「いいよ。だってひかり食べたいんでしょ?」
「そうだけど」
「じゃあ、決まり」
 手を繋いで歩き出す。沙弥は嬉しそうだった。ひかりも嬉しくなって、口元が少し歪む。
 市民公園を一歩外に出ると、一瞬違和感があった。後ろを振り向いたり辺りを見渡したりしてみるが、何もない。
「どうしたの?」
 沙弥が覗き込んでくる。
「なんでもない」
 気のせいか。





 おいしいラーメンを食べた後に、食材や衣類の買い物をして、それなりに満ちた気持ちでいた帰り道、アパートの前で、デジャブかと思うほど、いつの日かと同じような立ち姿で向井竜也は待っていた。いや、待ち伏せされたと言うべきか。半歩先を歩いていたひかりの足が止まったのを不思議に思った沙弥が、ひかりを見、次にひかりの視線を追った。そして、驚くほどわかりやすく震え出す。
「楽しかったかい?」
 あぁ、市民公園で感じた視線はコイツだったか。ずっとつけていたなんて、どれだけ暇人なんだ。もっとしっかり注意しているんだった。ひかりは無意識に拳を握り締めた。
「待ってたよ、沙弥」
「沙弥に近づくな」
 口元だけの笑みを浮かべる向井竜也を、ひかりは睨みつけた。半歩前に出て、意識的に沙弥を下がらせる。
「結構見張ってたつもりなんだけど、沙弥、いつの間にこの女の家にきたんだ? 全然気付けなかった」
 空はもう夕闇だ。話だけで何とか追い返せるだろうか。暴力沙汰は避けたいが、こういう男は何をしてくるか分からない。ひかりは全身を緊張させた。武道や護身術などの覚えはないが、沙弥を守るという気持ちだけで何とかできる気がした。
「帰ろう、沙弥。沙弥が帰る場所は俺のところだろう」
「イヤだっ!」
 ひかりの後ろから、沙弥が叫んだ。初めてひかりの前で感情を露にした沙弥に、ひかりは内心驚いていた。そしてそれほどまでに辛かった、怖かったんだと、沙弥を守ろうとする気持ちが一層強くなる。
 沙弥の声は怒りや恐怖から裏返って、丁寧に耳を傾けないと聞き逃してしいそうだった。
「わたしはもう竜也のところには帰らないっ! 帰りたくないの。……もうイヤだよ!」
「何だと」
 向井竜也の声音が瞬時に低くなり、目も据わる。ひかりは身構えた。意識は完全に目の前の向井竜也に集中しつつ、チラリと沙弥を盗み見た。おそらく、あの男に反発したのは初めてなのだろう。沙弥の焦点は合わず、ひかりの服を掴んだまま震えを抑えることが出来ないでいる。
「沙弥、お前は俺のものなんだ。俺についてくればいいんだよ。どうしてそんな簡単なことが出来ないんだ」
「ついてなんかいけない! もうイヤだって言っているでしょう!」
「何がイヤなんだ。俺たちは相思相愛なんだから、一緒にいるのが当然なんだ。もう我侭はやめて、こっちにおいでよ」
「イヤ!」
「聞けよ、沙弥」
「こっちの台詞だよ!」
 沙弥は震えている。痛々しいくらいに。
「分かったよ。もういいよ、沙弥」
 ひかりが沙弥の目を見て言うと、沙弥は落ち着きを取り戻し、ひかりを見てから小さく頷いた。それを見てから、ひかりは再び向井竜也を睨みつける。
「帰りなよ。沙弥はお前を必要としていない」
「それは間違ってる。沙弥は――」
「間違っているのはお前だ」
 ひかりが低い声で強く言うと、向井竜也は一瞬怯んだ。
「もう二度と私たちの前に現れるな」
 少し脅しただけで、向井竜也は気弱になった。
 ひかりは気付いた。向井竜也は自分より強い者に暴力を振るう勇気はなく、基本的に口だけで、思い通りにならないことの全てを沙弥に手を上げることで発散させてきた。そういうタイプの男なんだ。
「帰れ」
 小さすぎる男。こんな男のために沙弥が今までどんなひどい目にあってきたのかと思うと、今まで感じたことのないほどの怒りが込みあがってきた。
「帰れよ、早く」
 一歩近づく。向井竜也はポケットに手を入れるいつものポーズのまま微動だにしない。
「帰れ」
 向井竜也のそのポーズは怯えにも思えた。沙弥を失うことを恐れているのか、ひかりが怖いのか、その両方か、どちらでもないのか、ひかりには分からなかったが、この男は今のひかりに怯えている。
 この馬鹿げた小さい男のために一人の女の子が泣いた。ひかりは許さない。
「帰れよ」
 向井竜也は表情を変えず、黙って背中を向けた。
 夕闇の星空。見上げながら、この道ももう少し人が通ればいいと呼吸を落ち着かせた。





*****





 まだ危険だから、とひかりは沙弥が一人で外に出ることを許さなかった。だから、沙弥は大体いつもひとりで留守番している。DVDを観たり、掃除したり、洗濯したり。ベランダから顔を出すのも危険だからと、洗濯物は全て部屋干しだ。
 携帯の充電器が自分とひかりと共同で使えることは救いだった。これがなければ、どうしても一度アパートへ戻らなければならなかった。しかし今部屋はどうなっているのだろうか。まだ引き払ってはいない。
 沙弥はひかりにはとても感謝をしている。もうとっくに過去の存在であった向井竜也に動揺した日、ひかりの強さを知った。絶対的な安心感と安らぎを与えてくれる。
 しかし、そんなひかりを裏切るかのように、日に日に沙弥は男がほしい気持ちを抑えることができずにいた。癖と慣れが手伝って、軽い気持ちで出会い系にアクセスする。年齢をサバ読んだりしながら、バーチャルな会話に興じていた。
 女というだけで簡単に男がつれるが、二十歳前後にサバを読んだり、既婚者だと嘘をつくとなお更男が群がってくる。男は若い女が好き。男は女に責任を持ちたくない。
 男は基本的に最低だと思い込み、それほど期待しないことで暇を潰すくらいには十分に楽しめた。沙弥にはそれでよかった。
<サヤちゃん。今何してますか? 暇なら一緒にドライブでもどうかな。十七歳なのに学校に行ってないのは事情があるのかな。あ、それとも、学校でこれやってるの? いけない子だね>
<四十歳のおじさんでよかったらメールしてね。いつでもサヤさんの相談相手になるよ>
<二十三歳で主婦かあ。大変? 出会い系やっているのは旦那に満足してないからでしょ。俺なんか結構自信あるよ。ど? 試してみない?>
 暇な男は多い。日本人は働きすぎというのは絶対嘘だ。本当だとしても極一部の人だ。ほとんどの男は楽したがって働かない。
<じゃあ五時に一番近い駅に来れる?>
<行く行く。一番近い駅ってどこ?>
 馬鹿な男を誑かすのは楽しい。守るつもりのない適当な約束をして、当然のように放置する。
 携帯を閉じると手入れしていない髪に手をやった。美容院にも行きたい。頬に手をやる。肌もガサガサだ。自分の時間がほしいと少し思う。今だって暇ゆえに出会い系で遊んでいるけれど、これが自分の時間というのは少し違う気がしていた。本物の、何にも捕われない自分の時間がほしい。
<サッちゃんって本名なんていうの?>
<ここにもネカマは多いからね。キミがちゃんと女だって証明に顔写真写メしなさい>
<スタイルいいんだね。ナキゴエもいいんだろうなあ。おじさん、サチを想像しただけで興奮して眠れないよ。実物のサチに会いたいなあ>
<どこに住んでんの? 今から出られる? 俺車持ってるからどこへでも迎えに行くよ>
 次から次へとメールは入ってくる。沙弥は面倒くさくなると携帯を放り出した。今日の夕飯どうしよう。
 ひかりとしか顔を合わせない生活。それはそれで幸せだが、ひかりがいなければ何も出来ない自分になりそうなのが怖い。
 ひかりがいないのは怖い。ひかりがいないのは困る。ひかりのことは一番愛しているし、尊敬している。ひかりのためなら、何だってできる。
 だけど……
 ……落ち着いたら、ひかりとは別れよう。
 唐突に、そんなことを思う。最大限の礼をして、自分が成長するためにも、別れたい。自分はレズビアンではない。ひかりとの決定的で絶対的な違い。
 最低な男から自分を守ってくれる存在に対して、最低のことをするかもしれない。そうなったら、いくらでも詰られよう。一番愚かなのはきっと自分だ。
 多分、ひかりとは友達にはなれない。
 ……なんだろう、息が詰まる。
 外へ、出てみようか。
 窓から入ってくる静かで冷たい風に一瞬突きつけられた衝動。窓から覗く空を見上げると、その瞬間だけ沙弥の心は無になった。
 ――結構見張ってたつもりなんだけど、沙弥、いつの間にこの女の家にきたんだ? 全然気付けなかった――
 蘇る向井竜也の声。ハッとして顔を伏せる。ダメだ。外になんてとても怖くて出られない。
 好きなように行動しても、何も怖くない世界になればいいのに。外に出るだけで、歩いているだけで怖くて、何かに怯えなければならないなんて、平和じゃない。女の子はどうしたって不利だ。自由に外も歩けない。二本の足で歩くことさえ、自由に出来ない。
 ……もうイヤだ。
 元彼氏のことが落ち着いたって、ひかりと別れたって、身の危険は続くかもしれない。歳さえとれば危険もなくなると信じていたが、二十八になってもこのざまだ。
 どうして。どうして、自分ばかり。
 ……誰か守って。
 でも、誰も守ってくれない。今まで守ってくれていた人たちのほとんどが逆の立場になった。
 もう知ってる。分かってる。思い知ってる。誰も守ってなんかくれない。
 自分がそうであるように、誰もが自分のことで手一杯なんだ。守ってくれる人なんて誰もいない。もう、どうしたらいいのか分からない。





*****





 いつだって死を意識している。その脳内に占める比率はその時々によって違うが、それでも、いつだってひかりの脳裏に死≠ヘチラついている。沙弥の存在によって自分は命を繋いでいるが、いつか辿り着くのは死しかないと、それは絶対で、変える事の出来ない事実だと捉えている。そして、いつか来る死を、今か今かと待ち続けている。
 ランチタイムの客足が落ち着くと、新婚さんは鼻歌交じりに洗い物をしだした。その姿は本当に幸せそうで、この人はこうなるべく生きてきたんだと何となく思った。
 以前、店長にも「どうして生きているのか」をひかりは聞いてみたことがある。その時の答えは、「そんなのわかんないよー」だった。
 自分は幸せになれないだろう。だけど、こういう人は幸せになるべきだ。
「幸せそうですね、店長」
「いいじゃんいいじゃん。幸せなんだもん」
「新婚生活どうっすか?」
「どうも何も、何だか色々照れくさくてね」
 店長は饒舌に話してくれる。
「つまらない遠慮ばかりちゃうんだ。夕飯作るのを手伝っても、奥さんの邪魔にならないように、どこに立っていればいいかばかり考えちゃうんだよ。掃除も手伝いたいんだけど、どうしてたらいいのか分からないし。新聞紙まとめてほしいって言われてやったら、上手くできなくて、結局奥さんがやり直さなきゃならなくなったりしてね。それなら最初から手伝わなければいいのにね。でも、何かやりたいんだよ。……なんかおかしいかな」
「おかしくはないです。面白いとは思うけど」
 ひかりが率直に感想を言うと、店長はキョトンと首を傾げた。
「面白い?」
「そういう気持ちになったことはないので」
「ひかりちゃんは若いし、やっぱり女の子だからじゃないかな」
 店長の言っている意味がまるで分からなかったが、ひかりは曖昧に頷いた。
「そういえば、ストーカーだっけ、落ち着いた?」
「まだです」
「大変だね」
「ヒトゴトだと思って。こっちは身が危険なんですよ」
 店長の口調が軽く思えて、ひかりは苦笑した。すると店長は少し困った顔をする。
「いやいや、本当に心配してるんだよ」
「それならありがたいですけど、店長は今幸せなんですから、私たちの心配より、自分たちのことを考えてくださいよ」
 今度は店長が苦笑した。
「……守るもののある女性って強いんだよ。だけどそれは母親に限った話で、ひかりちゃんは子供を産んだことなんてないでしょ。そういう女性は、やっぱり弱いんだよ」
 突然何を話し出すんだと、ひかりは無意識に身構えた。子供の話題は好きではない。自分の身体から人間が出てくるなんて、考えただけでゾッとする。いつ子供がほしい、何人子供がほしい、その手の話は時々拒絶反応で震えが来る。ひかりの声は自然と低くなる。
「何が言いたいんです?」
「無理しないでね。ひかりちゃんは、やっぱり女の子なんだよ」
 子供の話じゃないと分かると、肩の力が抜けた。
 店長は少し感じが変わった。穏やかでやさしくなった。以前からそうであったが、それに輪を掛けたようになった。
「前に、ひかりちゃん聞いてきたことあったよね、『何のために生きているのか?』って。俺さ、答えが分かった気がする」
「何ですか? 答えって」
「俺はね、毎日を笑うために生きているんだ。奥さんといればそれだけで笑える気がするし」
「惚気ですか」
「ひかりちゃんは?」
「はい?」
「ひかりちゃんは、何のために生きてるの?」





 何度も断ったのに、店長に何を言われたのか、田中はひかりを送ると言ってきかなかった。田中はひかりより早く上がったが、わざわざひかりの上がりまで待っていた。仕方なく一緒に歩く。
「いいって言ってるのに」
「まだストーカー男いるんすよね。だったら、ひかりさんも危険じゃないっすか。俺だって送り迎えくらい役に立ちますよ」
「余計なお世話だって。それに、ストーカーされてるのは私じゃないよ」
「そんなこと言ったって分からないじゃないっすか。もしひかりさんに何かあったら、自分悔しいっす」
「悔しい?」
 意味が分からず、聞き返してしまう。
「だって、自分何もしないでひかりさんに何かあったら、絶対後悔するっす。だからこれくらいさせてほしいっす」
「……」
 背の高いひかりと並ぶと、田中は少し低かった。体つきも細くひょろひょろしているから、正直頼り難い。ひかりは本当に田中の行動をありがた迷惑に感じていたが、形だけでも感謝をするべきだろうか。
 いつもより少し長く感じた時間も、歩き続けると終わりが見えてくる。
「もうすぐだ」
「この辺、少し暗いっすね」
 田中が半歩後ろでキョロキョロとしている。
「そうか? いつも通っているから分からないな」
 見えてくるならそろそろか。と、ひかりは注意深く前を見て歩いていく。夜の道に、目を凝らす。
 向井竜也は――いた。
 気持ち悪いくらい以前と同じような格好、同じようなポーズで。暗い夜空を見上げている。
 ――今日は何だ。何をどう言ってくるつもりなんだ。前回私に怯え逃げるように背を向けたこと、忘れたのか。
 ひかりが足を止めていると、田中は不思議そうにひかりの顔を覗き込んだ。
「どうしたんすか?」
 ひかりが顎で指し示すと、すぐに田中も気付いた。
「あ、あれがストーカーっすね。俺、懲らしめてくるっす」
 言うが早いか田中はひとりで前に出てしまう。
「田中、待て」
 ひかりの制止も聞かず、田中は目の端を吊り上げ、両手をポケットに入れ佇む向井竜也のもとへ大股で向かっていった。
 田中はこんな短絡的なヤツだったか? ひかりは内心焦った。相手には言葉が通じないんだ。
「やい。ストーカー」
 勇敢というべきか無謀というべきか、田中は向井竜也の前に仁王立ちになった。向井竜也は不思議そうに首をかしげる。
「はい? 突然なんですか?」
「とぼけるな! ひかりさんを困らせて、お前がやっていることは男として最低だ。警察に突き出される前にどっかいけ!」
「田中!」
 暗闇でもはっきり分かるくらい田中は怒りで顔を赤くさせていた。
 田中の後から追いついて来たひかりに目を細め、向井竜也は目を細め嘲笑うような声を出す。
「何だ、あんたの彼氏か。あんたは幸せで、沙弥が幸せじゃないなんて不公平だな」
「何を言っている」
「沙弥を出せ」
 向井竜也は田中には目もくれず、鋭い目でひかりを見据えていた。
「おい、俺の話を聞いていたのか。早くどこかへ行けよ」
「ガキは黙ってろ。それにストーカーだ何て心外だな。俺はこの女のストーカーなんてことは断じてない。どこか行くのは、完璧に部外者のキミだよ」
「沙弥は渡さないよ」
 田中が何か言う前に、ひかりは口を出した。何か言いたそうな田中を目で制す。――余計なことは言うな。
「お前の存在が沙弥にどんな恐怖を与えていると思っている。こんなにまで執着して、男として情けなくはならないのか。今はもう沙弥の心は欠片もお前にない」
 この男を完膚なきまでに叩きのめしたい。完勝しなければダメだ。打ちのめさなければいけない。
 ひかりは義務感に負われていた。
 沙弥を守る。こんな男に負けたら、沙弥の人生の終わりが来る。そんなことはさせない。
「そんなこと、あなたに言われる筋合いはないよ。沙弥は今でも俺だけを愛している。俺はわかるんだよ。――いいから早く沙弥を出せ」
 この男の傲慢な勘違いはどこからくるのか。ただの自己愛の塊ではないか。
 ……気持ち悪い。
「沙弥はお前がこの家を知っていることを知っている。それなのに沙弥が自主的にお前の元に向かわない。……これがどういうことだか、分かるだろう」
「あぁ、沙弥はまだ俺が許していないと思っているんだね。もういいよ、勝手に出て行ったことなんて、もう怒っていない。沙弥さえ戻ってくれば、今までのように幸せに満ち足りた生活に戻れるんだ。……沙弥を出せ」
 ダメだ、と思った。この男に何を言っても、通じない。この男に言葉が通じない。分かっているのに、ため息が出る。伝わることを期待しないで、ひかりは話し出す。
「……お前は、沙弥の気持ちを知ろうとしないんだな。分かってやろうとしないんだな。自分の気持ちだけを押し付けて、沙弥の言動の全てを自分の思い通りにしないと気がすまない。少しでも自分を傷つけることをしたら、暴力で支配しようとするんだ。沙弥じゃなくても、誰だってそんなヤツからは逃げ出したくなるさ」
「そうっす。お前は男として最低っす」
 田中が入ってくる。ひかりは田中を手で制した。
「田中は黙ってろ」
「言わせてください、ひかりさん。好きなら、大好きな女の子なら、男として守ってあげるのが当然っす。自分が怖がられる存在になるなんて、悔しくないんすか。大好きな女の子を自分の思い通りにするなんて、それは理想っすけど、理想だけっす。実際、そうされた女の子はみんな逃げていくんすよ」
「何を言っているのか分からないな。俺は沙弥に何も押し付けていない。全て沙弥が望んでやっていたことだよ」
「その女の子、自分から逃げたんでしょ」
「……」
 向井竜也の目の色が変わった。ひかりは反射的に身構える。田中は堂々と向井竜也を正面から見据えていた。
「お前、ムカつくな」
 低い声だった。
「人の女隠しておいて、随分説教じみたことをしてくれるもんだ。お前、女経験も社会経験も大して持っていないだろう。何様だ、あぁ?」
 口調が変わった。ひかりにとっては、初めて聞く声だった。内心驚く。もしかしたら、沙弥はずっとこの向井竜也を見てきたのかもしれない。自分より弱いものに対する、高圧的な態度。
「好きな女の子に逃げられて後を付け回している人に何を言われても怖くないっす。俺は、後ろめたいことなんて何もしてないし、言ってない。お前と違って、こんな暗い時間に一人で女性を待ち伏せなんかしない。お前なんて最低男だ」
「最低男」
 確かにその通りなのだが、田中のつけた固有名詞は安直すぎて面白かった。
「やい、最低男。もう分かっただろう。お前が間違っている。私はやさしくないからね、はっきり言ってやるよ。お前が間違ってる。頭冷やして反省して、もう二度とここへは来るな。次来たら、今度は出るとこ出てやる」
「何を言ってる。俺が間違っているわけないだろう」
「じゃあ聞くが、沙弥は今幸せか? お前のところにいて、沙弥は幸せだったのか?」
「幸せだったに決まっているじゃないか」
「だったら、どうして逃げ出したんだよ。携帯捨ててまで、どうして逃げたんだ。……お前は結局、沙弥のことを全く想っていなかった。自分のことしか考えていなかったんだよ。今だって、沙弥の幸せを考えるなら、こんなこと、しないだろう」
「あなたはおかしいよ。沙弥は俺といるのが一番幸せに決まっているじゃないか」
「……何を言っても無駄だな」
「ひかりさん」
 田中の声が割って入った。
「ひかりさんはもう部屋へ入ってください。この男には、俺が話を付けておきます」
 急に冷静になった田中を、ひかりはしばらくまじまじと見てしまった。確かにこのままでは話は平行線だし、どこかで決着をつけなければならない。だけど、第三者にこの状況を任せるには酷な気がしたし、まして田中となると不安だった。それに、何とか自分でどうにかしたかった。だけど、どうすれば向井竜也を退けられるか、分からなかった。
「大丈夫なのか?」
 真っ直ぐに向井竜也を見据える田中を、信じてみようと、一瞬でも思った自分を信じてみたかった。
「はい。男同士の方が話も分かるでしょう。事情も、何となく分かりました」
 向井竜也は田中を睨んでいた。ひかりは二人を見比べ、アパートの部屋を見上げる。明かりは、ついていた。
「ひかりさん」
「……分かった。無理はするなよ。何かあったらすぐに連絡しろ」
「平気っす。俺だって、こうみえても男なんすよ」
 田中は、薄い胸板を自信もって叩いた。

 



「沙弥」
 ひかりは部屋へ入ると、真っ先に沙弥の名前を呼んだ。
「ひかり、どうしたの?」
 少し慌てたように出てきた沙弥だけど、いつもと変わらない笑顔をひかりに見せている。やさしい表情。その変わらない姿に、ひかりは安堵のため息を漏らした。
「よかった、無事か」
「無事だよ。ちゃんと外には出てないから」
「よかった」
「何かあったの?」
 キョトンとした瞳で見つめられて、ひかりは思わずたじろいだ。話しても、沙弥は傷つかないだろうか。だけど、言わないわけにもいかない。恐る恐るひかりは話し出す。
「……向井竜也が、待ち伏せしていた」
「え……」
 沙弥の表情に色がなくなった。
「今日はたまたまバイト先の人に送ってもらってさ、その人が話しつけてくれるって。だから、今日は甘えてきた」
「……どういうこと?」
「最初から言い合っていて、話は平行線のままで、埒があかなくてさ。そしたら田中が……あ、田中ってバイト先の人なんだけど、そいつが何とかするから私は帰れって」
「その人は今……竜也と話しているの?」
「あぁ。どう何とかするつもりなんだろうな、第三者なのに」
 ひかりが思案していると、沙弥は自分の両腕で自分の肩を抱いた。だからひかりは沙弥を引き寄せると抱きしめてあげる。
「向井竜也は、『沙弥を出せ』って聞かない。あんな単細胞は初めて見るよ」
 単細胞。自分で言った単語に、ひかりは田中を思い出した。田中もなかなか単細胞なヤツなのだ。
「……バイトの人心配だから、私やっぱちょっと行ってくる。沙弥は絶対ここから出るなよ。鍵もかけて」
「……わかった。気をつけてね」
「あぁ」
 ひかりは沙弥の頭をぽんぽんとやさしく叩き、部屋から出て行った。





*****





 ひかりを見送ったそのままの姿で、沙弥は一人で泣いた。
 自分の知らないところで、赤の他人に迷惑をかけている。自分は非力で、何にも出来ない。そしてもうひとつ……。
 ――ひかりは変わっていく。
 直感で分かる。『バイト先の田中』というのは、きっと男だ。
 ひかりは変わっていく。
 ひかりはまだ二十三歳だ。まだ十分変われる。でも、自分はもうダメだ。二十八歳。ここまできたら、もうダメだろう。
 沙弥はうずくまって泣いた。涙はどこまでもどこまでも止めどなく流れ落ちる。手近にあった洗濯したばかりのひかりの黒いシャツをハンカチ代わりにして、好きなだけ泣いた。
 向井竜也のことなんてもうどうでもいい。あんな男、どうなったっていい。女を道具にしか思っていない男など、生きている価値なんてない。
 だけど、何でもない人を巻き込むことはたまらなく悔しかった。そして、あんなバカな男をきっかけにいい方向に変わっていくひかりの姿を祝福できなかった。
 沙弥は、顔を上げることが出来なかった。





*****





 二人を探して夜の道を歩いていると、夜風に乗って言い合っている声が聞こえてきた。
 アパートの前から少し離れた路地、自販機の明かりに照らされて、向井竜也と田中が向かい合って立っている。出て行くべきか迷い、田中を信じ、少し離れたところにいることにした。外灯の位置を計算して、闇に紛れる場所を選び気配を消す。
 ひかりは風下にいるのか、耳を澄ますと、ふたつの声がクリアに届いてくる。淡々として、感情を抑え、だけどしっかりと力の乗った声。
「――やりすぎっす。本当に好きなら彼女の気持ちも考えるべきっす」
「好きだからずっと一緒にいたいんじゃないか。それのどこが悪い。キミだって分かるだろう。男なら、好きな女を自分のモノにしたいじゃないか」
「一方的な気持ちじゃ相手は去っていくっす。さっきも言ったっす」
「キミの言ってることの意味が分からないな。第一、キミは関係ないじゃないか」
「関係あるっす。お前はひかりさんを困らせてる」
 風向きが変わり、声が届かなくなった。全身で集中して耳を傾けてみても、声は聞こえても何を話しているのかは聞こえず、話の内容は全く分からなかった。雲の動く重低音が耳障りだ。
 様子を見ていると、しばらくして田中が急に頭を下げた。ひかりが眉根を寄せると、向井竜也が表情を変えずにポケットからやっと出した拳で田中の顔を殴った。ひかりは思わず身を乗り出す。立て続けに鈍い音。ひとつ、ふたつ。田中はされるがままに殴られている。田中が何かを言った。向井竜也は今度は怒りを露に拳を振り上げた。血が飛ぶのが見えた気がした。
 ――出て行って止めるべきか。
 しかし、状況がよく分からない。出て行けば話はこじれるかもしれない。一度田中を信じた以上、信じきりたかった。
 自分がどうしたらいいのかわからない。
 一方的な暴力を目の当たりにして、ひかりは足が竦むのを感じていた。これは恐怖だ。同時に疑問も感じる。田中はどうして殴られ続けているのだろう。反抗しないのだろう。向井竜也に何を言ったのだろうか。
 ひかりは携帯電話を握り締めた。救急車か警察か、必要があれば呼ばなければならない。この状況に置いて冷静な自分に苦笑した。
 身体を強張らせ固唾を飲んで見守った。誰も傷つかないでほしい。
 ――自分以外、誰も死んではいけない。
 ドサッと、田中が倒れこんだ。荒い呼吸が聞こえてくる。その上から馬乗りになり向井竜也はさらに殴りかかろうとした。たまらずひかりは前へ出た。これ以上見ていられない。
「やめろ」
 その声に、向井竜也はハッと我に返り振り返った。
「これ以上やったら警察呼ぶぞ」
「それは困る」
 向井竜也は思ったよりあっさりと身を引いた。自販機の光に映し出された顔は馬鹿らしいほどキレイで、歪んでいた。
「キミ、もう二度と俺の前に現れるな」
 何度かこの男に言った言葉を、今度は別の相手にこの男が放ち、向井竜也はどこかへ消えて行った。
 姿が見えなくなるのを確認すると、ひかりは田中に駆け寄った。
「大丈夫か?」
 ひかりは倒れた田中を抱き起こし、田中はひかりの顔を見ると血まみれの顔で嬉しそうに笑った。唇の端も切れて血が流れている。動かすのも辛いだろうに、田中は必死に伝えようと、声を出す。
「ひか、……り、さん。安心してくだ、さい。あの人、もうひかりさんの前に来ません」
「何を言っている。いや、喋るな」
 ひかりはその場で救急車を呼び、同乗して病院まで付き添った。幸い軽症ですみ、その日のうちに病院を出ることができた。





 ――そして、本当に向井竜也は現れなくなった。





 波が引いたように静かになった。あれほど脅威だった向井竜也がいなくなってから襲ってくる恐怖もあって、不安で不安で仕方ない時もあった。そんなときは沙弥と抱き合って眠った。
 あの時、一方的に殴られたのはなぜなのかと田中に聞いても「男同士の問題っす」しか言わず、店長も「終わったならいいじゃん」とお気楽だ。顔中痣だらけにした田中の代わりにひかりは多めにバイトに入り、その分を治療費にと田中に渡すが、彼は「受け取れないっす。自分でやったことっすから」と頑なに受け取らない。
 行き場のない気持ちを自分の中だけで消化できず、沙弥に内緒で出会い系サイトのチャットにアクセスするようになった。同情も同意も慰めもどんな感情も相手に求めず、ただ話を聞いてくれるだけの顔も分からず個性も持たない存在しているかも分からない人とバーチャルなやりとりをしているうちに、現実とのバランスが崩れ出し、ひかりは何度か吐いた。
 バイト帰り、透明な空を見上げて思う。私、何をやっているんだろう。
 結局沙弥を守ったのは田中で、自分は何もやっていない。
 空しさを抱えながら、家路に着くと、沙弥が待っていた。
「ひかり、お帰り」
 変わらない笑顔。
「……ただいま」
 変わらない自分。





*****





 向井竜也との事の決着の全ては、ひかりから聞いた。自分の問題なのに、全く関係ない人を巻き込んでしまった。そしてその人が怪我をしてしまった。
 罪悪感でいっぱいなのに、その恩人に会って感謝を伝えることを躊躇う自分がいる。その人とひかりが一緒にいるところを見たくない。それだけの理由で。
「外に出よう。ここ数週間警戒してたけど、向井竜也は現れない。もう大丈夫みたいだな。買い物もしたいだろうし、ほら、美容院とかも行きたいだろう。それに駅前に新しいカフェが出来たんだ。一緒に行ってみないか? 駅だってもう心配ない。好きなところに行ける」
 少し痩せたひかりは、少しずつ晴れやかな表情を取り戻している。沙弥は、そのことが素直に嬉しかった。
 進んでいかなければ。頭では分かるが、体が重く、涙しか出てこなかった。
 疲れた心で沙弥は思う。仕事を探そう。ゆっくりでいいから、自分できちんと生活をしなければ。そして、もう変な男にひっかからないようにしよう。それが、ひかりや、自分を助けてくれた人たちへのせめてもの恩返しになる。沙弥は自分にそう言い聞かせた。
 もう立ち上がれ。
 ひかりの手をとって外に出ると、陽の光が眩しくて、数秒目を開けられなかった。
「大丈夫か?」
 ひかりはやさしい。沙弥は頷いて、ひかりに寄りかかるように歩き出す。
 外の世界は、新鮮で明るかった。
 太陽の光に照らされると笑いやすくて、そうやってまた笑えている自分に安堵した。
 身の危険を感じずに自由に歩けるということは素晴らしかった。見慣れていたはずのお店や景色がキラキラとしていて、笑いながら涙が出そうになった。食事をしたりショッピングをしたり、何気ない恋人同士のデート。永遠にも一瞬にも感じ取れる時間。
 そんな時間の中にいられることが、嬉しかった。
 自分がバイセクシャルだという性質上、いつかはひかりを裏切ってしまうかもしれない。そんな危惧もどんな不安も忘れていられる時間は、恐ろしいほど幸福だった。
 明るい未来が待っている。
 そう思えた。
 不安なんて何もない。ひかりとは、恋人関係をやめたとしても、きっと上手くやっていける。だって、こんなにも幸せなんだもの。
 そう思っていた。

 ――ひかりが後生大事に取っておいた、十四年前の新聞記事を発見してしまう前までは。





*****





「平和すぎて怖い」
 バイトの暇な時間、ひかりは新聞を広げていた店長にぼやいた。
「神経張ってる生活が続いていたから、何もなくなると急に力が抜けて、なんていうんだろう、こう……」
 ひかりはレースのカーテンを少し開けて、外を見た。人通りのない昼下がり、とても穏やかな日差しが降り注いでいる。
「無気力になる」
 あぁ、こんなキレイな空の下で、私たちは何をやっていたんだろう。この日差しを素直に浴びることが出来たなら、人の心はきっともっと豊かになる。
「何もないのはいいことだよ」
 新聞を閉じた店長は大きな鍋を洗うことと、何かを仕込むことの両方を同時にやりながら答えた。
「俺たちみたいなラブラブな新婚さんを世界中の人は見習うべきだよ」
「店長、意味がわかりません」
「よかったじゃない、これで心置きなくデートも出来るんでしょ」
「まぁ、そりゃ……」
 ここのところ、誰とでも会話のキャッチボールがうまくできている気がしない。いつもそうだったかと記憶を少し巡らせてみるけれど、そうだったかもしれないし、そうでなかったかもしれないし、思い出せない。
「平和ボケしてていいんじゃない? ひかりちゃんってさ、いろいろあるでしょ。同性愛者だってだけでいろいろありそうなのに、家族もいないし人間不信みたいだし。平和に慣れようよ」
「……」
 どこまで何を知っているつもりなのか、店長はひかりの顔も見ずに言った。
「田中の顔もよくなってきたしさ、さすが若いよね。傷の治りも早い早い」
 仕込みが一区切りつくと、店長は顔を上げて息をついた。
「ひかりちゃんはさ、もう少し幸せになる努力したほうがいいよ」
 悲しそうに笑う。その表情は、家族を亡くした頃から誰からもよく向けられていた。赤の他人がいったい何を思うのだろう。どんな感情を自分に抱くのだろう。その表情を向けられる度に、ひかりはいつも顔を伏せる。今も。
「女の子はね、幸せになれるはずなんだよ。じゃないと、あまりにも悲しいすぎるから。同性愛者でもなんでもいいけどさ、幸せになれるはずなんだよ、女の子は誰しもね。幸せになろうとはしないの?」
「幸せの意味が分かりません」
 ひかりは内心うんざりしていた。分かりきったような口ぶりの男の説教じみた小言ほど面倒なものはない。
「ひかりちゃんはいつも寂しそうな顔をしてるよ」
「そういう顔なんですよ。放っておいてください」
「俺、ひかりちゃんがちゃんと笑うところ見てみたいよ」
「……」
 その日、ひかりは店長の目をあまり見れなかった。




*****





 昼間、沙弥はひとりで買い物に行った。ひかりの好きなピザを手作りしようと決めていた。だけど、材料を購入してから家に帰りキッチンの前に立つと、オーブンがなく、ピザが作れないことに気付いた。ため息をつく。それくらい、最初に気付くべきだった。一気に作る気をなくしてしまった。代わりの料理さえする気がもうない。
 居間に戻って、テレビをつける。見たことあるようなないようなドラマの再放送がやっていた。ふと、目線が左に動く。いつも気にも留めていなかった、黒いカラーボックスの一番下、黒い箱が仕舞われてあった。どこまでも黒なのがひかりらしい。沙弥はその顔を思い浮かべて少し笑った。その黒い箱を手にとって見る。少し重いそれは埃にまみれていた。
 ――キレイになってたら、ひかり嬉しいかな。
 考えて、沙弥は掃除することにした。何の気なしに、黒い箱を開ける。
 中を覗くと、息をのんだ。
 そこにあったのは、黒焦げた古い布と、真っ黒で形すら分からない何かの小物と、ボロボロになってすえた臭いさえする、十四年前の小さな新聞記事だった。







 <原因不明の一家心中>
 23日深夜、某所のある一戸建ての家が炎に包まれた。近所の人の通報により消防が駆けつけた時にはすでに全焼に近い状態だったという。世帯主は焼死。その妻、9歳の娘、5歳の息子には刺し傷が付けられていた。そのうち母親、弟はすでに死亡。娘は意識不明。
 警察署の調べによると、父親が家族全員を刺殺後、火を放った模様。遺書などはなく、原因は不明。







 沙弥の唇は震え出した。体中の血が全て下がっていくのを感じる。青ざめ生気を失う。
 十四年前、新聞のこの日より少し前のことを、今でも鮮明に思い出せる。
 ……まさかひかりは。
 ひかりは、この父親の娘なのか……?
 沙弥の表情は翳る。消えたはずの絶望が、また蘇る。
 執念深く粘着質に纏わりついて絶対に離さないように、絶望だけが沙弥を取り巻く。どこまでも、どこまでも……



 向井竜也に怯えていた生活の中で、ひかりの目のないところでは自堕落な日々を送っていた。ひかりも気付いていたかもしれない。だけど、「一番辛いのは沙弥だから」と、全てを許してくれていた。

 ――最悪の裏切り者が、いるの?

 沙弥は泣いた。誰も見ていない。声を上げて、ひかりのベッドにすがりついて泣いた。もう、二十代のほとんど毎日、泣いている。





*****





 バイト上がり、星空の下で、休みのはずの田中が待っていた。顔の腫れは大分よくなっている。
 ひかりが立ち止まると、店長がひかりの背中を押す。ひかりはよろめきながら数歩前へ行き、振り返ると店長がニヤニヤ笑っていた。
「店長は私の理解者じゃなかったですか?」
 自分は同性愛者だと、暗に告げる。田中はまだ知らない事実。
「理解者だよ。数少ないひかりちゃんの理解者。でもね、ひかりちゃんが見えないものも、見えてると思ってる」
「……」
 小さく、本当に小さく息をつく。店長に背を向けて田中の傍まで来ても、ひかりは表情を変えずにいた。
「ひかりさん、お疲れ様です」
「……あぁ」
「これ、ブラックでいいっすか」
「もらう」
 ひかりが温かい缶コーヒーを受け取ると、田中はホッとしたような顔をした。ひかりが歩き出すと、田中も隣を歩き出す。
「なんかすみません。俺が怪我したせいで、ひかりさんがバイト多く入らなきゃならなくて」
「お前が怪我したのは私が原因だ。だから気にしなくていい。何よりその顔で接客されても困る」
「……一番悪いのはあのストーカーっす。ひかりさんが俺に罪悪感を感じることはないっす」
「……そうか」
 ひかりが無愛想なのは昔からだが、その言葉の少なさに田中は不安になる。
「あの、ひかりさん」
「何だ?」
「今日、送らせてください」
「もう送ってるじゃないか」
 ひかりは苦笑した。
「田中のお陰で脅威は去った」
 自分で脅威≠ネんて言葉を使っておいて、少しおかしくて笑ってしまった。
「もう、不安はないよ」
「でも、女の子の一人歩きは危険っすから」
「今更か? 私は男に間違えられることが多いし、私自身の身の危険はそうないよ」
「あの、でも……送らせてほしいっす。あ、送っているっすけど、ちゃんと認識してほしいというか……」
 うつむきがちな田中を少し見つめて、ひかりは冷たい目をした。
「好きにしろ」
 ひかりは、田中の好意をどうするつもりもなかった。人の気持ちなんて自由だ。何をどう思おうが、何をどう感じようが、何を好きだろうが、誰を好きだろうが、そんなのは人の自由だ。誰か別の人物がとやかくいうことはない。たとえ自分がその渦中にいようと、その人の気持ちはその人のものだ。誠意を持って伝えてくるならこちらも誠意を持って対応するが、伝えてこないなら何もしない。





「あ」
 最初に気付いたのは、田中の方だった。
 ひかりは立ち止まり、その視線を追って目を凝らす。そこで見つけた人物に、思わず身を固くした。空気が急に冷たく感じた。
 何度か見た立ち姿。もう見ることもないと思っていた立ち姿。変わらない姿勢で、向井竜也はひかりに気付くと不敵に笑った。ほんの少しだけ、纏う空気が柔らかくなったようにも思えた。
「やぁ」
「何しにきた」
 警戒から、ひかりの声は低くなる。田中が前へ出ようとしたのを手で制し、自分が一歩前に出た。
「報告にね」
「報告?」
 意味が分からなくて訝しむ。余裕そうな向井竜也が何だかムカついた。
「そう。新しい彼女が出来たから、もう沙弥はいらないよ。今、とても幸せなんだ。新しい彼女は俺に尽くしてくれるし、俺もそれに甘えたいと思う。今以上の幸せはない。沙弥がいなくなってよかった。それだけ」
「それを言うためだけにここまで来たのか? 『もういらない』なんて言うならそれでもうここに来なくてもよくないか? どうしてわざわざこんなところまで来たんだ」
「深読みするなんてつまらない女だな。他意はない。本当に今日は報告だけ。もう二度とあなたの前には現れないよ。……あぁ、それから」
 ここだけ、向井竜也の声は低くなった。言葉に棘が混じる。
「沙弥に伝言。俺がいなくなって寂しくなったって、絶対にストーカーみたいなことはするなよ。そう言っておいてくれ」
「……」
 ストーカーはお前だ。頼まれたってお前の前には現れない。
 言いたいことはたくさんあったが、全ての言葉を飲み込んだ。もう絶対的に関わりあいたくない。
 向井竜也は自分の言いたいことだけ言うと、さっさと背中を向けて暗い闇の向こうへ消えていった。
「勝手なヤツだな」
「でも、よかったっす。ひかりさんたちがもう本当に自由になれて。……俺も、少しは役に立てたっすかね」
「少しなんてどころじゃない。お前には本当に迷惑かけた」
「迷惑じゃないっす。自分から進んでやったことっすから」
「……そうか。ありがとな。いろいろ」
 ひかりの声に何を感じたのか、田中はハッと顔を強張らせた。
「ひかりさん」
「何だ?」
 田中の答える間が少しあった。何をどう言おうか、それとも何も言わずにいるか、すごい速さで頭が回転しているのだ。
「……何でもないっす」
 ひょろひょろの男の答えはそれだった。
「そうか。送ってくれてありがとな。……おやすみ」
「おやすみなさい」
 田中の背が見えなくなるまで見届けようと思っていたひかりだったが、田中はひかりがアパートの玄関に入るまでここにいると言うから、ひかりから先に動いた。玄関の前で振り向くと、田中がずっと見ていた。手を振ると、彼は少し笑って振りかえした。





 部屋の明かりがついていないことに、ひかりは中に入ってから気がついた。
「沙弥?」
 不思議に思って呼びかけてみるが、返事はない。しかし確実に人の気配はあった。
「沙弥」
 パチッとスイッチを押す。部屋が明るくなる。黒いソファーに、沙弥は蹲るようにして座っていた。その前のテーブルには、何か紙切れが置いてある。
「何これ」
 不審に思いそれを手にしてみる。十四年前、自分の家が燃えたときの新聞記事だった。
 赤黒く生ぬるい液体。それにまみれて倒れている母親と、自分の中に流れる同じものが一方向に噴出していく感覚。体中から力が抜けていく無力さ。強烈に脳裏に焼きついている記憶が一気に蘇ってきた。
 ――ひかりの中で大分消化しているとはいえ、思い出すと目まいを起こしそうになった。
 だけど、どうしてこれがここに……?
「……ひかり」
 沙弥の呼びかけは小さかった。だけどひかりが現実に戻ってくるには十分だった。
「何?」
 ひかりは沙弥の声を聞き逃さない。
「これってさ、ひかりのお家なんだね。十四年前、一家心中の後に放火。家族全員死んでしまったと思っていたけど、ひかりは生き残ったんだね」
「確かにこれは昔の家だよ。私は生き残り」
 どうしてこれに沙弥が反応するのか分からなかった。ただ事実を述べるひかりは沙弥を見つめたが、沙弥は目を合わせなかった。
「どうした? これは十四年前のことで、私だって普段忘れている。私自身の歴史にとってかなり重要なことだが、別に沙弥に隠していたわけじゃないよ」
 沙弥の知らない秘密がひかりにあることが不満なのだろうか。しかし沙弥はそんなタイプには思えなかった。同性愛者だということがすでに人に言えない秘密であり、それ以上大きなものを、女の子が積極的に背負おうとするわけがない。
 目の前に差し出されたこれも大切にとっておいた新聞記事とはいえ、これがひかりの家だと気付くにはかなりの直感力がいる。だけど沙弥は気付いた。そして、こんなに暗い顔をしている。
「大変だったでしょう。家族みんな死んじゃって、ねぇ、ひかりは今までほとんどひとりで生きてきたの?」
 いつもの明るくてやさしい沙弥の話し方じゃなかった。ひかりはソファーの下に座り、その手を沙弥の膝に置いた。
「どうした? いつもと様子がおかしい」
「槙谷ひかり」
 沙弥の口から出たその名に、懐かしさを感じるよりも先になぜかギクッとした。
 ――どうして、その苗字を……?
「知らないでしょう? ひかり。どうして父親が家族殺害なんてそんなことをしたのか。真面目な勤め人だった父親が、そんなことをしたのか。わたし、知ってるよ。教えてあげる――」
 今日はじめてひかりを見つめた沙弥の目には涙が溜まり、そして見たこともないような悲壮な面持ちをしていた。





*****





 十四年前。沙弥が十四歳の頃だった。沙弥はサッカー部のマネージャーで、今では考えられないくらい活動的な性格だった。その日は練習試合の前日で、学校が終わってから夜遅くまで練習をしていた。選手たちはもう下校し、マネージャーである沙弥はひとり残って片づけをしていた。
 夜十時。中学生の女の子がひとりで帰る時間ではない。しかし今日両親は親戚の結婚式に出席しているため家にはおらず、監督も選手たちも疲れてもう出てしまっていた。沙弥はひとりで歩いて帰るしかなかった。
 学校から十分くらい歩いたところに歩道橋がある。そこを通っていたときに、前から黒いスーツを着た男の人がやってくるのがわかった。普通にすれ違うつもりだった。沙弥は疲れていたし、男の人も仕事帰りのサラリーマンに見えたから、特に警戒もしていなかった。
 ふと、違和感を覚えたのはその男の人と十歩くらいの距離の時だった。思わず足を止めると、その男の人と目が合う。その目がギラッと光った。男の人は片足で踏み切ると、いきなり沙弥に抱きついてきた。沙弥は驚いて、頭が真っ白になって声が出てこない。襲われているとやっと頭で理解した時には、男の人は沙弥のスカートをめくりショーツの中に手を入れ、ねっとりと耳を舐めていた。気持ち悪いという感覚よりも何よりも経験したことのないほどの恐怖が沙弥を支配していた。
 ――どうしよう、助けを、呼ばないと。
 この頃の沙弥は顔と性格が合っていなかった。大人しそうな顔をしているが、実際は活動的なのだ。顔だけで気が弱いと勘違いされ、好き勝手なことを言われたりされたりすることもよくあったが、その度に何だかんだ全部跳ね除けてきた。
 しかし、今回相手は大人の男の人だ。学校の中だけの世界とはわけが違う。嫌悪感を少しでも何とかしたくて身体を動かしてみるけれど、思うように動けない。
「い、や……」
 涙が出てくる。この歩道橋は、この時間にはほとんど人は通らないのだ。
「やだっ」
 のどの奥から振り絞るように何とか声を出すと、なんとか自分が戻ってきたような気がした。少しでも自分の意思で動かせる場所があることが、自分を勇気付けた。だけど頭で考えるとどう動けばいいのかまるで分からなかった。本能が自分を逃がそうとしていた。
「誰か……」
 沙弥は渾身の力で身体を捩り、歩道橋の上から身を乗り出して叫んだ。
「誰か助けて! 誰か!」
 しかし、大声を出したと自分では思っても、実際は掠れるような小さい声でしかなく、しかもそれは行きかう車のエンジン音にかき消されていく。
 沙弥に反抗されたことを知った男は何をどう思ったのか、急いて沙弥のスカートを破くように脱がし、精液のついた沙弥のショーツも同じように脱がすと、沙弥の後頭部を持ち歩道橋の上から落とそうとした。
 ――殺される。
 そう思うと、今度は別の恐怖が襲ってくる。中学生の沙弥の力と成人男性の力の差は知れている。命の危険になると力の限りの抵抗が出来た。
「いやあぁぁああぁぁ!」
 男は強い力で沙弥を車の往来の中へ落とそうとし、そうなるものかと沙弥は大声を上げながら抵抗する。この高さと交通量……落ちたら間違いなく死んでしまう。
 長い時間攻防しているように思えた。腕の力も声もそろそろ限界になり、もうダメだ、死ぬと覚悟した時に、別の大人たちが血相を変えて駆けつけてくるのが目の端に映った。彼らは沙弥と男を引き剥がし、数人で逃げようとした男を取り押さえた。沙弥は女性に肩を抱かれ、誰かの上着を腰に巻かれた。
 しばらく呆然と成り行きを見つめ、明日学校に行けるかなぁなんて考えていた。
 ――だけど、どうしてわたしが……
 もう大丈夫、安心すると、涙が出てきた。蹲って泣きじゃくった。誰かが背中をさすってくれていた。
 男は強制猥褻罪と殺人未遂の現行犯で逮捕になる。しかし、一瞬の隙を突いて男は逃げ出した。先に男から取り上げていた身分証がまだその場に残っていて、身元は簡単に割れた。
 その男の名前は槇谷健二。
 ひかりの父親だった。





*****





「何とか家に帰って、安心するとわたしはまた泣いた。あんなに泣いたのは後にも先にも初めてだった。その日を境に性格も少し変わったの。行動的だったのが、少しの音にも反応してビクビクするような気弱な女の子になってしまった」
 ひかりは話を聞きながら呆然としていた。
 家族全員を殺害(ひかりのみ未遂)、そして火を放った父親の行動の理由。沙弥の話が本当なら、あまりに愚直で短絡的で身勝手で、ひかりは涙すら出ない。雲の上の話のようで、だけど自分の身内の起こした事件なのだと思うと、やりきれなかった。
「わたしはね、今でも恨んでいる。槇谷健二のせいで男性恐怖症にもなった。自分の強欲から見ず知らずの女の子を犯して、自分のちっぽけな自尊心を守るために家族さえ殺し、あまつ放火までした。そんなのってありえる? ひどいよ。ひどすぎる。自分の罪から逃れるためなら家族を巻き込むこともいとわない人。最低よね」
 沙弥の声は震えていた。その最低な人の娘はどんな顔をしていいのかわからなかった。
「加害者や、居合わせた人、そんな人はそんなよくあるような事件、すぐに忘れるよ。だけどね、被害者はいつまでもずっと覚えているってどこかで聞いた。わたしも、そう」
「……」
「ねぇ、ひかり。わたしはね、恨んでいるの。槇谷健二を」
「……」
「もう十四年も前のことだよ。今でもね、忘れられないの。その日のこと。ねぇ、恨んでいるの」
「……どうしてほしい?」
 ひかりは沙弥の目を見た。強い光を含み、揺れている。
「わたしに、どうしてほしいんだ?」
 沙弥の人生を変えた最低な父親。男の一瞬の快楽のために、時に女は一生を失う。
 ひかりは震えていた。父親に対する罵りと、沙弥への責任の重さ。そしてそれを現実で起きた出来事だとまだ受け入れられない自分への怒り。顔が熱くなってくるのを感じる
「まさかね、あの槇谷健二とひかりが親子だなんて思わなかった。普通思わないよ。苗字だって違うし、出会い系で知り合った人がまさか自分の処女を無理矢理奪った男の娘だなんてさ。普通は思わない」
 ひかりは真っ直ぐに沙弥を見る。沙弥が嘘をついているようには思えなかった。自分ですら謎だった父親の行動の全て。いや、事件に関わった大人たちは知っていたかもしれない。沙弥が知っているのだから、当然知っているだろう。自分を引き取ってくれた親戚や、殺された母親だって知っていたかもしれない。だけど、子供の自分には何も知らされなかった。それが、何も知らされていなかったそのことが、今になって重く圧し掛かってくる。
「ひかりとね、槇谷健二が親子だって言うことはわたしの中で直結しないの。あくまで別人。槇谷健二は恨んでいても、ひかりは恨んでいない。……だって、助けてくれたもの。ひかりはわたしをどん底から掬い上げてくれた。恨んでいるどころか、ものすごく感謝している」
 沙弥は両手で顔を覆い、小さく泣いていた。その震える背中を支えるべきか否か、ひかりは迷う。
「でもね、ひかりを見ると、槇谷健二を思い出してしまう」
 沙弥は後悔していた。知らなければよかった。些細な好奇心で、ひかりの仕舞いこんであった箱なんて覗かなければよかった。そうすればよかったのに。
「ねぇ、別れて」
 もう、それしかなかった。





*****





 いつか来ると思っていた。ひかりは完全なレズビアンで、沙弥はバイセクシャル。この差は大きい。
 沙弥は癒しの為に女を求めた。女の柔らかさと優しさは身体にも精神にも心地いい。だけど実際は子供がほしい。あたたかい家庭を築いてみたい。その場所を守ってみたい。
 ひかりの世界はほとんど女だけで構築されている。男なんて眼中にない。子供なんてほしくないし、結婚願望なんてさらさらない。
 ――ふたりの、この差は大きい。
 だから、いつか絶対に別れる時がくると思っていた。
 できれば、穏便に別れたかった。だけどそうはならなかった。
 ――自分は沙弥を幸せに出来ない。
 ひかりは、目の前がブラックホールになってしまったかのような、もう何度目になるか分からない絶望を感じていた。
「これから、どうするんだ?」
「ん。アパートまだ引き払ってないから、一度そこに戻るよ。その後は、分からない」
「……そうか」
 玄関で靴を履く沙弥を見守りながら、ひかりは沙弥の荷物が少ないことに気付く。女の子なら、もっと荷物が多くてもよさそうなものなのに、いつか駆け込んできたその日から、服も化粧品もほとんど買い足していないことに気付いた。ひかりのような女の子ならそれでもいいが、沙弥のような女の子に、そんなこと耐えられたのだろうか。何を聞いても、沙弥はいつも「大丈夫」とばかり言っていた。ひかりは、強く拳を握り締める。
 今後、沙弥は変われるだろうか。きちんと自分を大切にしてくれる男に出会えるだろうか。槇谷健二の亡霊に捕われたまま、男の恐怖に怯え続けるのだろうか。なんにせよ、ひかりは自分がどうやっても関わるべきではないんだろうと思う。
「沙弥、……ありがとな」
 ひかりは、精一杯笑ってみせる。笑うことは苦手だが、それでも、笑って見せた。
「ひかり」
 沙弥はひかりに抱きついた。
「ありがとう。ありがとう。本当にありがとう」
 そして笑って見せた沙弥の笑顔にいつもの柔らかさはなく、痛々しいくらいの悲しく切ない笑顔だった。沙弥の温もりがゆっくり遠ざかっていくと、もう戻れない別れが待っていた。
「バイバイ」
 永遠の別れの言葉だった。
 沙弥は玄関を開けて、外へ出て行く。その背中はあまりにも小さかった。
「幸せになって、今度こそ、本当に……」
 沙弥が出て行った後の、何もない虚空に呟いた。
 それは罪悪感から出る言葉だったかもしれない。だけど沙弥のためだけを思う言葉だった。紛れもない本心だった。
 幸せになれると思う、沙弥は。そうであってくれないと、ひかりが困る。
 ひかりは、しばらくその場を動けないでいた。
 ――こんなに切なく悲しい気持ちで満たされるのは、どれくらいぶりだろう。
 ひかりは泣かなかった。ただ悲しかった。
 全身が震えそうになるのを抑えて、少し笑った。
 明日から、どうやって生きていこう。ただでさえ生きにくい世界で、大切なものをひとつ失って、どうやって。
 もう、何も考えられない。
 重い体を引きずるようにしてやっとリビングに戻ると、携帯を取り出して、沙弥のメモリを呼び出す。ナンバーゼロの場所だった。ボタン操作すると『消去しますか?』の文字が無機質に訴えてくる。
 これでいいんだと自分に言い聞かせて。
 そしてゼロになる。